平井Ⅱ遺跡

 初期須恵器を多量に出土した楠見遺跡の北西約300mの丘陵裾に位置し、近年、新たに発見された遺跡です。第二阪和国道の建設工事に伴い発掘調査が実施され、古墳時代の竪穴遺構、土坑、掘立柱建物、柵列、中世の井戸などが検出されました。
 遺跡からは古墳時代の多数の初期須恵器が出土し、組紐文や竹管文が施された破片や、肩部に乳状突起を付けた壺もしくは甕の破片が出土し、古墳時代中期の楠見遺跡の初期須恵器と共通する点があり、注目されています。

〔写真〕初期須恵器出土状況、初期須恵器(器台)

坂田遺跡

 坂田遺跡は、神武天皇の兄である彦五瀬命の墓と伝わる竈山神社古墳がある竈山神社の北方に位置し、周辺の独立丘陵上には和田古墳群、三田古墳群、坂田地蔵山古墳群が分布します。県道建設にともなう平成21年(2009)の発掘調査では、古墳時代の掘立柱建物群が発見され、もとは古墳の副葬品であったとみられる琴柱形石製品が出土しました。またその北に位置する宅地開発にともなう平成26年(2014)の発掘調査では、北側の丘陵の南で埋没古墳の周溝が発見され、埴輪が出土しました。中世には多数の柱穴と井戸が確認されており、集落が存在していた可能性が想定されています。

〔写真〕平成21年(2009)調査全景、琴柱形石製品

奥山田遺跡

 和歌山市東部の紀ノ川南岸の低丘陵に立地する遺跡で、宅地造成に伴い発掘調査がおこなわれました。発掘調査の結果、弥生時代の竪穴住居や横穴式石室を埋葬施設とする古墳時代後期の古墳群、平安~鎌倉時代の建物跡などが発見されました。
 発見された7基の古墳からは6~7世紀の須恵器、鉄器(鉄鏃、刀子)、耳環、玉類(ガラス玉、土玉)が出土し、金層ガラス玉の採集品もあります。平安~鎌倉時代には整然とした建物配置を示し、周辺には小鍛冶をおこなっていたとみられる鍛冶炉が3基確認されました。

〔写真〕竪穴住居(弥生時代)、横穴式石室(古墳時代)、掘立柱建物(平安~鎌倉時代)、6号墳出土遺物(古墳時代)

秋月遺跡

 秋月遺跡は、紀伊一ノ宮である日前宮を中心とした遺跡です。これまでに日進中学校や向陽高等学校内などで発掘調査が行われ、弥生時代前期の土坑、古墳時代前期の竪穴建物、古墳時代前期~後期の古墳群、日前宮やその東西にかつてあった貞福寺・神宮寺に関わる可能性がある古代~中世の遺構が発見されました。とくに古墳時代では、墳丘は残存せず周溝のみですが、前期の前方後円墳、中期の方墳、後期の円墳があり、長期間にわたり古墳がつくり続けられたことがわかりました。
 1km西の丘陵上には岩橋千塚古墳群があり、丘陵上の古墳群と平地の古墳群という違いが注目されます。

〔写真〕前方後円墳(古墳時代前期)、古墳群全景(古墳時代後期)、瓦積井戸(室町時代)

鷺ノ森遺跡

 和歌山市の中央部に位置する浄土真宗西本願寺派である鷺森別院の周囲に所在する鷺ノ森遺跡は、現地表面から約60cm下の江戸時代末期の生活面から約2.5m下の古墳時代の生活面まで6~7面の生活面が存在します。これまでの調査では、古墳時代の溝、飛鳥時代の竪穴建物や掘立柱建物、鎌倉時代の井戸、戦国時代の堀、江戸時代の建物礎石や井戸、鍛冶関連遺構など各時代の生活跡が発見され、これらに伴う膨大な量の遺物が出土しています。戦国時代の堀は約17m、深さ3mに及ぶ大規模なもので、当時の本願寺の方向と合致します。

〔写真〕戦国時代の堀、石建物跡

山口遺跡

 山口遺跡は、古代の寺院跡である山口廃寺の南で、近世の山口御殿跡の北西に位置します。また南方には東西方向に古代の南海道が想定され、遺跡内に熊野古道がとおる交通の要衝でもあります。県道建設にともなう平成5年(1993)からの発掘調査では、おもに古墳時代初頭、飛鳥時代、中世の集落跡が発見されました。特に飛鳥時代では、山口廃寺の造営直前の時期の掘立柱建物群が発見され、寺院の造成にともなって廃絶し、寺院の近くに移動した可能性があります。

〔写真〕平成5年(1993)調査全景、堀立柱建物

和田遺跡

 和田遺跡は、市域南部の和田川の南岸に位置し、周辺一帯に河南条里の地割りが残る水田地帯です。県道建設にともなう平成26年(2014)からの発掘調査では、和田川により形成された微高地上で、弥生~古墳時代の井戸、溝、竪穴建物、掘立柱建物、古代~中世の井戸などが発見されました。弥生時代~古墳時代では、微高地から落ち込む地点に大量の土器が廃棄された状態でみつかりました。中世の井戸では、底で土師器の皿に白石をつめた状態でみつかり、井戸の廃棄にともなう祭祀の跡と考えられています。

〔写真〕落ち込み状遺構(土器出土状況)、中世の井戸

六十谷遺跡

 六十谷遺跡は、標高15.0m前後の段丘上に営まれた縄文時代から鎌倉時代にかけての集落跡です。遺跡内部には、北半部に推定古代南海道が東西に横断し、遺跡の南限には淡路街道(淡島街道)があります。
 六十谷遺跡では、千手川の堤防から縄文時代晩期の土器や石棒の頭部がみつかっており、遺跡の西側に鎮座する射矢止神社の周辺では、弥生時代前期から後期までの弥生土器のほか、サヌカイト製の石鏃をはじめとする石器が表採されています。
 遺跡の中央部南端で行われた発掘調査では、古墳時代前期から中期の溝やピット、平安時代から鎌倉時代の屋敷地を区画する溝などがみつかっており、平安時代の溝からは緑釉陶器の碗や中国製の白磁の碗が出土しています。紀ノ川北岸の段丘上には、推定古代南海道を通して中央との交流をもった集落が多数営まれたと考えられ、六十谷遺跡もそのうちのひとつとみられます。

〔写真〕屋敷地の区画溝

府中Ⅳ遺跡

 紀ノ川下流域の北岸の標高24~26mの段丘上に立地する集落遺跡です。数次にわたる調査で、弥生時代~鎌倉時代の建物遺構、溝、土坑などが確認されています。時期の判明するものとしては弥生時代後期の円形竪穴建物7棟、古墳時代前期の方形プランの竪穴建物17棟、奈良時代の掘立柱建物2棟、鎌倉時代の掘立柱建物2棟などがあります。特に、弥生時代終末~古墳時代初頭頃に集落としてのまとまりがあり、竪穴建物のなかには炉周辺の土を盛りあげた炉堤やベッド状遺構をもつものや一辺が8.6mもある大型の方形プランのものも含まれています。
 出土遺物には、弥生土器、土師器、砂岩製砥石、叩石、古墳時代前期の刀子とみられる鉄器片、奈良時代の厚さ7cmの塼、製塩土器などがあります。

〔写真〕竪穴建物群(古墳時代前期)、全景

西田井遺跡

 紀ノ川の河口から約10km上流の北岸に位置する、弥生時代後期から江戸時代にかけての集落遺跡です。発掘調査の結果、各時代の層から竪穴建物・掘立柱建物・溝・井戸・土坑・墓といった多様な遺構が検出され、古墳時代中期の竪穴住居では造り付け竈や貯蔵穴を持ち、須恵器や土師器のほか丸底の製塩土器や韓式土器なども出土しています。

〔写真〕全景(西から)、溝(土器出土状況)、竪穴建物、堀立柱建物