弥勒菩薩坐像

 紀三井寺の本堂内には須弥壇(しゅみだん)上の宮殿型厨子(くうでんがたずし)のほかに4つの脇壇があり、この弥勒菩薩坐像は左脇壇(わきだん)の阿弥陀如来坐像(あみだにょらいざぞう)の脇侍(わきじ)です。
 引き締まった頭部の輪郭に眦(まなじり)の切れ上がった溌溂(はつらつ)とした風貌(ふうぼう)を示し、体部では節々にやや緩(ゆる)みがあるものの緊張感を残すことなどから、鎌倉時代後期(13世紀末~14世紀初頭)の菩薩坐像として優れた水準の作行(さくい)きを示すものであると考えられます。
 また、令和元年~3年度に実施された「紀三井寺悉皆(しっかい)調査」により紀三井寺と京や南都との関りの深さが確認されており、本作はこうした中央との関りが窺(うかが)える遺品としても極めて重要です。

地蔵菩薩立像

 穏やかで端正な相貌(そうぼう)を持ち、右手に錫杖(しゃくじょう)、左手に宝珠(ほうじゅ)を持って踏割蓮華座(ふみわりれんげざ)上に立ち、画面左上から飛雲(ひうん)に乗って飛来(ひらい)する地蔵菩薩像です。輪郭を金泥(きんでい)の隈(くま)で立体的に
表した雲斗(うんと)や精緻な截金(きりかね)文様を施した着衣(ちゃくえ)、錫杖や装身具などを彫塗(ほりぬり)であらわすなど、全体的に華やかさの中に静謐(せいひつ)な趣を湛えるなど鎌倉時代後期仏画の特色がよく表れています。鎌倉時代には六道救済(りくどうきゅうさい)の仏として地蔵菩薩への信仰が高まり、特に南都(奈良)では、春日三宮の本地仏(ほんちぶつ)を地蔵とすることもあり、地蔵菩薩像が多く造られました。
 なお、宝珠を高く捧げ、雲斗にのる点などから快慶の地蔵菩薩像の系譜を引くと考えられます。地蔵菩薩立像は令和元年~2年度に実施された調査により新たに発見された和歌山県内における数少ない中世仏画の優品であるだけでなく、中世における紀三井寺と南都との関りが窺(うかが)える遺品として極めて貴重です。

阿弥陀来迎図

総持寺(そうじじ)に伝来した阿弥陀来迎図(あみだらいごうず)です。阿弥陀如来の住む極楽浄土に功徳(くどく)を積むことで往生できるとする「浄土信仰」は源信(942~1017)により平安時代中期に広まったもので、「阿弥陀来迎図」は阿弥陀如来が死者を迎えに来た場面を描いたものです。和歌山市内に遺る数少ない鎌倉時代の絵画資料であるだけでなく、豊臣秀吉の弟である羽柴秀長の家臣で、和歌山城代を務めた桑山重晴が母の菩提を弔うために高野山遍照院(へんじょういん)から譲り受け、総持寺に寄進したことを記した寄進状が伴っており、伝来経緯を知ることができる点でも重要です。

(写真)阿弥陀来迎図、桑山重晴寄進状

紀三井寺の三井水(清浄水)

〔種別〕名勝

 紀三井寺護国院の境内で、名草山の中腹の古道に沿って「清浄水」「楊柳水」「吉祥水」の3つの清泉があり、「三井水」として古来から貴ばれ、寺名の由来ともなっています。慶安3年(1650)には、紀州藩初代藩主の徳川頼宣によって修復されたとされ、文化9年(1812)刊行の『紀伊国名所図会』には「三瀑泉」とあり、天保10年(1839)刊行の『紀伊続風土記』には「境内三の清泉あり」と記されています。また昭和60年(1985)には、環境庁の名水百選に選ばれています。
 清浄水は三井水のうち中央にあり、護国院表坂の楼門をくぐり石段を登ると右側の西向に滝口があります。寺伝によると紀三井寺を開山した為光上人の前に、竜宮の乙姫が現れ説法を乞うて、清浄水に没したとあります。

紀三井寺の三井水(楊柳水)

 〔種別〕名勝

 紀三井寺護国院の境内で、名草山の中腹の古道に沿って「清浄水」「楊柳水」「吉祥水」の3つの清泉があり、「三井水」として古来から貴ばれ、寺名の由来ともなっています。慶安3年(1650)には、紀州藩初代藩主の徳川頼宣によって修復されたとされ、文化9年(1812)刊行の『紀伊国名所図会』には「三瀑泉」とあり、天保10年(1839)刊行の『紀伊続風土記』には「境内三の清泉あり」と記されています。また昭和60年(1985)には、環境庁の名水百選に選ばれています。
 楊柳水は三井水のうち南に位置し、清浄水から南へ100mの山腹にあります。近代には荒廃が進みましたが、昭和60年代に企業家により整備され、復興をとげました。

紀三井寺の三井水(吉祥水)

〔種別〕名勝

 紀三井寺護国院の境内で、名草山の中腹の古道に沿って「清浄水」「楊柳水」「吉祥水」の3つの清泉があり、「三井水」として古来から貴ばれ、寺名の由来ともなっています。慶安3年(1650)には、紀州藩初代藩主の徳川頼宣によって修復されたとされ、文化9年(1812)刊行の『紀伊国名所図会』には「三瀑泉」とあり、天保10年(1839)刊行の『紀伊続風土記』には「境内三の清泉あり」と記されています。また昭和60年(1985)には、環境庁の名水百選に選ばれています。
 吉祥水は三井水のうち北にあり、境内北端の裏坂の山門から旧熊野街道を北へ100mにある祠から、さらに山腹を東に60m登ると滝口があります。昭和初期に土砂崩壊に見舞われましたが、近年には地元有志の手で復興をとげています。

西庄Ⅱ遺跡

 和歌山平野の北西部、和泉山脈のふもとに展開する遺跡で、西は平ノ下遺跡、東は木ノ本Ⅰ遺跡に接しています。昭和51年(1976)から昭和53年(1978)に発掘調査され、弥生時代~古墳時代の竪穴住居、鎌倉~室町時代の屋敷跡などがみつかっています。中世には東西に走る大溝と南北に走る大溝により区画された3つの敷地のなかに掘立柱建物、井戸、柵、溝、土坑などが展開しています。特に北西区の区画には、東西25m、南北15mの石組基壇と雨落ち溝をもつ掘立柱建物とそれに接するように井戸が存在していました。
 出土遺物には中国製青磁、白磁、染付のほか、土師器、瓦器、瓦質土器、備前焼、常滑焼、滑石製鍋、軽石製浮子、土錘、漆塗椀、滑石製品(温石)などがあります。

〔写真〕屋敷地の様子(区画溝、掘立柱建物、井戸)、石組井戸(中世)

和歌の浦

〔種別〕名勝・史跡

 和歌の浦は、和歌山市の南西部、和歌川河口に展開する干潟・砂嘴・丘陵地からなり、万葉集にも詠われた風光明媚な環境にあります。近世以降は紀州藩主らにより神社・仏閣等が整備・保護され、日本を代表する名所・景勝地として多くの人々が訪れるようになりました。
 玉津島神社、塩竃神社、天満神社、東照宮、海禅院などの神社仏閣を中心とし、周辺の奠供山、妹背山、三断橋、芦辺屋・朝日屋跡、鏡山、御手洗池公園、不老橋などを含む面積約10.2haが「名勝・史跡」として県指定を受け、その後、平成22年(2010)8月に玉津島神社、海禅院、不老橋など海岸干潟周辺一帯が国の名勝指定を受け、さらに平成26年(2014)10月6日に東照宮・天満神社周辺が国の名勝として追加指定を受け、県指定(名勝・史跡)範囲のほぼ全域(約99.2ha)が国の名勝としても指定を受けることになりました。

〔写真〕奠供山から望む和歌川河口

川辺王子跡

〔種別〕史跡

 川辺王子は熊野三山における御子神信仰の王子を勧請した熊野九十九王子の一つです。この熊野詣の沿道に設けられた王子社は、御師・先達制度とともに熊野信仰の特色のひとつとなっています。古代の熊野詣の道には紀路、伊勢路、大峯路がありましたが、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて行われた法皇や上皇による熊野御幸ではいずれも紀路が用いられており、御幸道として整備されたことによりこれらの王子社も発達したと考えられます。王子社は通例約2kmごとに設けられ、遥拝所兼休憩所として御経供養や御歌会なども催されました。川辺王子は雄ノ山越えにより和歌山県に入って中山王子、山口王子に続く3つ目の王子社にあたります。なお、『紀伊続風土記』には現在の力侍神社が川辺王子であろうと記載されていることから、史跡としては力侍神社境内を指定していますが、他の文献から和歌山市上野にある小祠の八王子を川辺王子跡とする説もあります。

高井遺跡

 高井遺跡は直川に位置し、東と西を谷にはさまれた段丘上に立地します。直川小学校内の発掘調査では、古墳時代前期と平安~鎌倉時代の集落跡が発見されました。平安~鎌倉時代では、多数の掘立柱建物があり、土師器、須恵器、黒色土器のほかに緑釉・灰釉陶器、中国製白磁が出土し、土葬墓から北宋銭15枚以上が出土しました。高井遺跡の周辺に古代の南海道が想定されており、それに関係する集落の可能性があります。

〔写真〕掘立柱建物、銭貨出土状況、銭貨