圓珠院資料
圓珠院は紀州徳川家初代の頼宣(よりのぶ)の命により京都愛宕社(あたごしゃ)から和歌山城の鬼門(きもん)の護り、城下の火伏(ひぶせ)として勧請(かんじょう)された愛宕権現社(あたごごんげんしゃ)の別当寺です。和歌山城や歴代藩主の護持(ごじ)に関連する祈祷(きとう)や法要(ほうよう)を行うなど江戸時代を通じて藩と緊密な関係を結んできた紀州徳川家ゆかりの寺院であることから、6代藩主宗直(むねなお)書写の「紺紙金字般若心経(こんしきんじはんにゃしんぎょう)」や弁天堂(べんてんどう)および本堂(旧愛宕社)内の宮殿型厨子(くうでんがたずし)をはじめとする藩主やその周辺の人々が関わった遺品が多く残されています。また、享保年間の愛宕社の屋根葺替は城下の人々から広く寄付を募っておこなわれており、それに関連する台帳等が残されています。この享保の修繕における体制は以後、「享保の先例」とされ直近の明治30年代の境内建替えにまで引き継がれてきたことが圓珠院に遺された文書群からうかがうことができます。
圓珠院資料は和歌山市内に残る数少ない紀州徳川家との関係が明確にうかがわれる資料群であるだけでなく、社寺の修復における勧進の実態がうかがえる資料群でもあるという点においても重要です。
_(写真) 紺紙金字般若心経/弁財天・毘沙門天・大黒天三尊像/将軍地蔵・毘沙門天・不動明王三尊像/本堂(旧愛宕社)宮殿型厨子
由良要塞跡(友ヶ島第3砲台跡)
明治政府は経済の中心地である大阪を守るため、大阪湾口部である紀淡海峡周辺に強力な洋式砲台を設置することとしました。要塞司令部が淡路島の由良地区に置かれたため総称として由良要塞と呼ばれます。友ヶ島には第1~第5の五か所に砲台が設置され、明治23年(1890)~明治37年(1904)に竣工しています。
島内の最高所周辺に設置された第3砲台は友ヶ島内の最主力砲台で、砲座・弾薬庫・電灯所・看守衛舎などが残されています。
〔写真〕友ヶ島要塞 第3砲座跡
由良要塞跡(友ヶ島第1砲台跡)
明治政府は経済の中心地である大阪を守るため、大阪湾口部である紀淡海峡周辺に強力な洋式砲台を設置することとしました。要塞司令部が淡路島の由良地区に置かれたため総称として由良要塞と呼ばれ、友ヶ島には第1~第5の五か所に砲台が設置されました。
明治23年(1890)に竣工した第1砲台は、加太・友ケ島地区では最初の砲台で、当時、最も優れていたフランス製カノン砲が備えられ、左右両翼に観測所が設置されていました。
由良要塞跡(友ヶ島第2砲台跡)
明治政府は経済の中心地である大阪を守るため、大阪湾口部である紀淡海峡周辺に強力な洋式砲台を設置することとしました。要塞司令部が淡路島の由良地区に置かれたため総称として由良要塞と呼ばれます。友ヶ島には第1~第5の五か所に砲台が設置され、明治23年(1890)~明治37年(1904)に竣工しています。
北側の防衛を目的して設置された第5砲台と第2砲台は、終戦後に爆破されていますが、全体として砲台の原型をよく留めており、明治期の国防の姿を今に伝えています。
由良要塞跡(友ヶ島第5砲台跡)
明治政府は経済の中心地である大阪を守るため、大阪湾口部である紀淡海峡周辺に強力な洋式砲台を設置することとしました。要塞司令部が淡路島の由良地区に置かれたため総称として由良要塞と呼ばれます。友ヶ島には第1~第5の五か所に砲台が設置され、明治23年(1890)~明治37年(1904)に竣工しています。
北側の防衛を目的して設置された第5砲台と第2砲台は、終戦後に爆破されていますが、全体として砲台の原型をよく留めており、明治期の国防の姿を今に伝えています。
由良要塞跡(友ヶ島第4砲台跡)
明治政府は経済の中心地である大阪を守るため、大阪湾口部である紀淡海峡周辺に強力な洋式砲台を設置することとしました。要塞司令部が淡路島の由良地区に置かれたため総称として由良要塞と呼ばれます。友ヶ島には第1~第5の五か所に砲台が設置され、明治23年(1890)~明治37年(1904)に竣工しています。
第3砲台に準じて整備された第4砲台跡には将校官舎と門柱が残されています。
〔写真〕友ヶ島要塞 第4砲台 将校官舎跡
由良要塞跡(男良谷砲台跡)
明治政府は国内の防御を進めるなかで、紀淡海峡の重要性を高く評価し、淡路島の鳴門・由良地区、和歌山市側の友ヶ島・加太地区に強力な洋式砲台を設置することとしました。
深山砲台は、加太南部の田倉崎砲台とともに本土側に設置された砲台跡です。明治37年(1904)に海岸部に竣工した男良谷砲台には、カノン砲4門が設置され、隣接して海軍の水雷発射施設も築造されていました。
由良要塞跡(深山第2砲台跡)
明治政府は国内の防御を進めるなかで、紀淡海峡の重要性を高く評価し、淡路島の鳴門・由良地区、和歌山市側の友ヶ島・加太地区に強力な洋式砲台を設置することとしました。
深山砲台は、加太南部の田倉崎砲台とともに本土側に設置された砲台跡です。明治26年(1893)竣工の第2砲台は、終戦後に爆破され、施設のほとんどは消滅しています。敷地の一角に、現在は休暇村施設が建てられ、弾薬庫や砲具庫として使用されたとみられる地下式掩蔽部が1基残されています。
由良要塞跡(深山第1砲台跡)
明治政府は国内の防御を進めるなかで、紀淡海峡の重要性を高く評価し、淡路島の鳴門・由良地区、和歌山市側の友ヶ島・加太地区に強力な洋式砲台を設置することとしました。
深山砲台は、加太南部の田倉崎砲台とともに本土側に設置された砲台跡です。北西方向の砲撃を主任務とし、明治30年(1897)に竣工した深山第1砲台には、観測所や10門からなる砲台が設置されました。
和歌の浦
〔種別〕名勝・史跡
和歌の浦は、和歌山市の南西部、和歌川河口に展開する干潟・砂嘴・丘陵地からなり、万葉集にも詠われた風光明媚な環境にあります。近世以降は紀州藩主らにより神社・仏閣等が整備・保護され、日本を代表する名所・景勝地として多くの人々が訪れるようになりました。
玉津島神社、塩竃神社、天満神社、東照宮、海禅院などの神社仏閣を中心とし、周辺の奠供山、妹背山、三断橋、芦辺屋・朝日屋跡、鏡山、御手洗池公園、不老橋などを含む面積約10.2haが「名勝・史跡」として県指定を受け、その後、平成22年(2010)8月に玉津島神社、海禅院、不老橋など海岸干潟周辺一帯が国の名勝指定を受け、さらに平成26年(2014)10月6日に東照宮・天満神社周辺が国の名勝として追加指定を受け、県指定(名勝・史跡)範囲のほぼ全域(約99.2ha)が国の名勝としても指定を受けることになりました。
〔写真〕奠供山から望む和歌川河口