友ヶ島要塞跡(第3砲台跡)

 明治政府は経済の中心地である大阪を守るため、大阪湾口部である紀淡海峡周辺に強力な洋式砲台を設置することとしました。要塞司令部が淡路島の由良地区に置かれたため総称として由良要塞と呼ばれます。友ヶ島には第1~第5の五か所に砲台が設置され、明治23年(1890)~明治37年(1904)に竣工しています。
 島内の最高所周辺に設置された第3砲台は友ヶ島内の最主力砲台で、砲座・弾薬庫・電灯所・看守衛舎などが残されています。

〔写真〕友ヶ島要塞 第3砲座跡

友ヶ島要塞跡(第1砲台跡)

 明治政府は経済の中心地である大阪を守るため、大阪湾口部である紀淡海峡周辺に強力な洋式砲台を設置することとしました。要塞司令部が淡路島の由良地区に置かれたため総称として由良要塞と呼ばれ、友ヶ島には第1~第5の五か所に砲台が設置されました。
 明治23年(1890)に竣工した第1砲台は、加太・友ケ島地区では最初の砲台で、当時、最も優れていたフランス製カノン砲が備えられ、左右両翼に観測所が設置されていました。

友ヶ島要塞跡(第2砲台跡)

 明治政府は経済の中心地である大阪を守るため、大阪湾口部である紀淡海峡周辺に強力な洋式砲台を設置することとしました。要塞司令部が淡路島の由良地区に置かれたため総称として由良要塞と呼ばれます。友ヶ島には第1~第5の五か所に砲台が設置され、明治23年(1890)~明治37年(1904)に竣工しています。
 北側の防衛を目的して設置された第5砲台と第2砲台は、終戦後に爆破されていますが、全体として砲台の原型をよく留めており、明治期の国防の姿を今に伝えています。

友ヶ島要塞跡(第5砲台跡)

 明治政府は経済の中心地である大阪を守るため、大阪湾口部である紀淡海峡周辺に強力な洋式砲台を設置することとしました。要塞司令部が淡路島の由良地区に置かれたため総称として由良要塞と呼ばれます。友ヶ島には第1~第5の五か所に砲台が設置され、明治23年(1890)~明治37年(1904)に竣工しています。
 北側の防衛を目的して設置された第5砲台と第2砲台は、終戦後に爆破されていますが、全体として砲台の原型をよく留めており、明治期の国防の姿を今に伝えています。

友ヶ島要塞跡(第4砲台跡)

 明治政府は経済の中心地である大阪を守るため、大阪湾口部である紀淡海峡周辺に強力な洋式砲台を設置することとしました。要塞司令部が淡路島の由良地区に置かれたため総称として由良要塞と呼ばれます。友ヶ島には第1~第5の五か所に砲台が設置され、明治23年(1890)~明治37年(1904)に竣工しています。
 第3砲台に準じて整備された第4砲台跡には将校官舎と門柱が残されています。

〔写真〕友ヶ島要塞 第4砲台 将校官舎跡

深山要塞跡(男良谷砲台跡)

 明治政府は国内の防御を進めるなかで、紀淡海峡の重要性を高く評価し、淡路島の鳴門・由良地区、和歌山市側の友ヶ島・加太地区に強力な洋式砲台を設置することとしました。
 深山砲台は、加太南部の田倉崎砲台とともに本土側に設置された砲台跡です。明治37年(1904)に海岸部に竣工した男良谷砲台には、カノン砲4門が設置され、隣接して海軍の水雷発射施設も築造されていました。

深山要塞跡(第2砲台跡)

 明治政府は国内の防御を進めるなかで、紀淡海峡の重要性を高く評価し、淡路島の鳴門・由良地区、和歌山市側の友ヶ島・加太地区に強力な洋式砲台を設置することとしました。
 深山砲台は、加太南部の田倉崎砲台とともに本土側に設置された砲台跡です。明治26年(1893)竣工の第2砲台は、終戦後に爆破され、施設のほとんどは消滅しています。敷地の一角に、現在は休暇村施設が建てられ、弾薬庫や砲具庫として使用されたとみられる地下式掩蔽部が1基残されています。

深山要塞跡(第1砲台跡)

 明治政府は国内の防御を進めるなかで、紀淡海峡の重要性を高く評価し、淡路島の鳴門・由良地区、和歌山市側の友ヶ島・加太地区に強力な洋式砲台を設置することとしました。
 深山砲台は、加太南部の田倉崎砲台とともに本土側に設置された砲台跡です。北西方向の砲撃を主任務とし、明治30年(1897)に竣工した深山第1砲台には、観測所や10門からなる砲台が設置されました。

和歌の浦

〔種別〕名勝・史跡

 和歌の浦は、和歌山市の南西部、和歌川河口に展開する干潟・砂嘴・丘陵地からなり、万葉集にも詠われた風光明媚な環境にあります。近世以降は紀州藩主らにより神社・仏閣等が整備・保護され、日本を代表する名所・景勝地として多くの人々が訪れるようになりました。
 玉津島神社、塩竃神社、天満神社、東照宮、海禅院などの神社仏閣を中心とし、周辺の奠供山、妹背山、三断橋、芦辺屋・朝日屋跡、鏡山、御手洗池公園、不老橋などを含む面積約10.2haが「名勝・史跡」として県指定を受け、その後、平成22年(2010)8月に玉津島神社、海禅院、不老橋など海岸干潟周辺一帯が国の名勝指定を受け、さらに平成26年(2014)10月6日に東照宮・天満神社周辺が国の名勝として追加指定を受け、県指定(名勝・史跡)範囲のほぼ全域(約99.2ha)が国の名勝としても指定を受けることになりました。

〔写真〕奠供山から望む和歌川河口

保田紙の製作用具

〔種別〕有形民俗

 紀州藩初代藩主の徳川頼宣が製紙業の復興を命じ、有田郡の山保田組大庄屋の笠松左太夫が奈良の吉野から製紙技術を導入し、清水で盛行させたのが、保田紙の由来とされています。
 紀州藩の御用紙として納められていた保田紙は、大正から昭和初期に最盛期をむかえ、400軒もの紙漉き屋が軒を連ねたといわれます。昭和28年(1953)の紀州大水害で有田川が氾濫して大きな打撃を受け、またその頃から和紙の需要が減少したことにより、製紙業が衰退しました。
 近年は伝統技術として復興され、継承されています。保田紙の製作用具は、和歌山県立紀伊風土記の丘が、民具の調査で収集しました。