太刀 銘元重

〔種別〕工芸

 直刃調の小乱で小丁字交じりの刃文を持ち、佩裏に銘を切る太刀(身長80.0cm)で、作者は備中国青江の元重です。身幅が幾分広く、反りも高い中鋒で、堂々とした太刀姿であり、非常に重さがあります。明治14年(1881)9月に、長尾家から南龍神社に奉納されたもので、のちに南龍神社が東照宮に合祀されたため、東照宮の所蔵となったものです。

〔写真〕刀身

太田・黒田遺跡

 紀ノ川の南岸の和歌山駅の東側に広がる遺跡で、標高3~4mの沖積地に弥生時代から江戸時代までの集落が営まれています。特に弥生時代には前期に水田遺構や竪穴住居を伴う集落が形成され、中期後半には集落域が拡大し、和歌山平野のなかで拠点的な集落として機能します。集落内で石舌を内蔵する銅鐸(和歌山県指定文化財)が出土した遺跡としても著名です。
 また、奈良時代には刳り抜きの井戸から和同開珎42枚・万年通宝4枚(和歌山市指定文化財)が出土しました。銭貨の出土例としては全国的にも多い事例です。
 室町時代の太田・黒田遺跡の南半部は、天正13年(1585)の秀吉による紀州攻めの際に、水攻めが行われたとされる太田城跡と推定されています。これまでの調査で太田城に関連するとみられる大規模な堀状の遺構が確認されています。

〔写真〕竪穴建物(弥生時代)、銅鐸、弥生土器、井戸(飛鳥時代)

浄永寺の板碑

〔種別〕史跡

 板碑は浄永寺(浄土真宗本願寺派)の境内に建てられており、砂岩製で高さ85cm、前幅35cm、横幅8cmです。碑面には38名の法名とともに「逆修講一結衆中敬白、元亀二年二月時正、直川門徒」と刻んであります。元亀2年(1570)2月、当地の門徒が出征する際に死後の冥福を願って逆修講を結んだものであると考えられます。なお、寺伝では石山合戦に出陣した戦死者の供養碑とされています。いずれにしても、当時の雑賀門徒の下部組織の姿を物語る資料として重要なものです。

総持寺玄関

 総持寺は紀ノ川の北岸の梶取集落の中に広大な寺地を占めます。この寺は鎌倉時代から南北朝時代の守護大名である赤松則村の孫明秀によって宝徳2年(1450)に開かれたと伝えられています。 寛文年間(1661~1672)には禅林寺・光明寺両末寺となって、紀伊・和泉両国に八十八ヶ寺の末寺を有するようになり、西山浄土宗檀林三ヶ寺の1つに数えられるなど名刹として現在に至っています。
 玄関は本堂と庫裏の中間に建っており、両建物と廊下で結ばれています。本堂や釈迦堂と違い、木柄が細く華奢な建物で、黄檗宗建物風の礎盤を用い、軸部は長押・貫・台輪で固め、台輪より上の妻飾の小壁部分を菊水や極楽鳥などで埋め尽くし、はなやかに飾っています。屋根は本瓦葺きで正面のみ銅板葺きとなっています。束に打たれた法華経奉納函に寛政5年(1793)寛仙上人が大覚寺宮の寄付を受けて造営をはじめ、同10年(1798)に完成、工匠は若山内大工町の広屋藤蔵と記されています。

総持寺釈迦堂

 総持寺は紀ノ川の北岸の梶取集落の中に広大な寺地を占めています。この寺は鎌倉時代から南北朝時代の守護大名である赤松則村の孫明秀によって宝徳2年(1450)に開かれたと伝えられています。寛文年間(1661~1672)には禅林寺・光明寺両末寺となり、紀伊・和泉両国に八十八ヶ寺の末寺を有するようになり、西山浄土宗檀林三ヶ寺の1つに数えられるなど名刹として現在に至っています。
 釈迦堂は、本堂と廊でつながれており、本堂と玄関をつなぐ太鼓橋をくぐるとちょうど釈迦堂の正面にくる配置になっています。ほぼ方七間の規模の大きな建物で、正面一間通を吹放の広縁とし、その奥は大きく前後に二分されます。前半分の桁行七間・梁間三間は広大な外陣として内部に柱を一本も立てない構造です。後半分は両側面に広縁をとり、残りを三列に割って、中央を仏間があります。骨組みや意匠の面では、広縁の正面柱通りと仏間正面に大虹梁を架ける以外は長押で軸部を固めて、外回りに船肘木を用いる以外は組み物その他の装飾部材を一切使わず、簡素なつくりです。正面扉金具に天保4年(1833)年の刻銘があり、その頃の完成と考えられます。