紀の川銅鐸出土地

 昭和35年(1960)11月に、紀ノ川に架かる田井の瀬橋下流約400mの中州の一角で、川底の砂利を採取していた船によって、銅鐸の破片が引き上げられました。砂利をすくい上げるバケットにより強い力が加わったために、銅鐸は約40点の破片になっていますが、元は1m以上もの大型の銅鐸であったことがわかります。身には突出する線によって文様がつけられている突線鈕式と呼ばれる型式で、弥生時代の後期頃の制作と考えられます。材質分析の結果、銅約90%のほかに錫と鉛が微量成分として含まれた、銅の比率が極めて高いことが判明しています。

有本銅鐸

〔種別〕考古資料

   昭和40年(1965)、中学生によって紀ノ川の河原で偶然に掘り出された銅鐸です。銅鐸は、弥生時代を代表する祭祀道具です。銅鐸本体は、水による摩滅が観察されないので、意図的に埋められていたものと推定されています。高さ44.6cmで、身には水が流れるような文様(流水文)が描かれ、吊り手(鈕)や外側の鰭の部分、身の最下段には、三角形の文様を連続させる鋸歯文が描かれています。吊り手は薄く造られ、そこに文様帯が多く表現される扁平鈕式に分類されます。

〔写真〕全体、側面、内面

西庄Ⅱ遺跡

 和歌山平野の北西部、和泉山脈のふもとに展開する遺跡で、西は平ノ下遺跡、東は木ノ本Ⅰ遺跡に接しています。昭和51年(1976)から昭和53年(1978)に発掘調査され、弥生時代~古墳時代の竪穴住居、鎌倉~室町時代の屋敷跡などがみつかっています。中世には東西に走る大溝と南北に走る大溝により区画された3つの敷地のなかに掘立柱建物、井戸、柵、溝、土坑などが展開しています。特に北西区の区画には、東西25m、南北15mの石組基壇と雨落ち溝をもつ掘立柱建物とそれに接するように井戸が存在していました。
 出土遺物には中国製青磁、白磁、染付のほか、土師器、瓦器、瓦質土器、備前焼、常滑焼、滑石製鍋、軽石製浮子、土錘、漆塗椀、滑石製品(温石)などがあります。

〔写真〕屋敷地の様子(区画溝、掘立柱建物、井戸)、石組井戸(中世)

平井遺跡

 大谷古墳の西方約500m、丘陵裾に位置する弥生~鎌倉時代の遺跡です。第二阪和国道建設に伴う発掘調査により古墳時代の横穴式石室、埴輪窯、奈良~平安時代の掘立柱建物や井戸が発見されました。特に2基発見された埴輪窯は県内での初めての調査例であり、窯内部からは円筒埴輪、形象埴輪(家形、馬形、人物、双脚輪状文、胡籙形)が出土し、埴輪の特徴から6世紀代に築かれたとみられます。今後、埴輪の分析により、供給先や工人の実態に迫ることができる重要遺跡です。

〔写真〕2号埴輪窯、横穴式石室、掘立柱建物

奥山田遺跡

 和歌山市東部の紀ノ川南岸の低丘陵に立地する遺跡で、宅地造成に伴い発掘調査がおこなわれました。発掘調査の結果、弥生時代の竪穴住居や横穴式石室を埋葬施設とする古墳時代後期の古墳群、平安~鎌倉時代の建物跡などが発見されました。
 発見された7基の古墳からは6~7世紀の須恵器、鉄器(鉄鏃、刀子)、耳環、玉類(ガラス玉、土玉)が出土し、金層ガラス玉の採集品もあります。平安~鎌倉時代には整然とした建物配置を示し、周辺には小鍛冶をおこなっていたとみられる鍛冶炉が3基確認されました。

〔写真〕竪穴住居(弥生時代)、横穴式石室(古墳時代)、掘立柱建物(平安~鎌倉時代)、6号墳出土遺物(古墳時代)

秋月遺跡

 秋月遺跡は、紀伊一ノ宮である日前宮を中心とした遺跡です。これまでに日進中学校や向陽高等学校内などで発掘調査が行われ、弥生時代前期の土坑、古墳時代前期の竪穴建物、古墳時代前期~後期の古墳群、日前宮やその東西にかつてあった貞福寺・神宮寺に関わる可能性がある古代~中世の遺構が発見されました。とくに古墳時代では、墳丘は残存せず周溝のみですが、前期の前方後円墳、中期の方墳、後期の円墳があり、長期間にわたり古墳がつくり続けられたことがわかりました。
 1km西の丘陵上には岩橋千塚古墳群があり、丘陵上の古墳群と平地の古墳群という違いが注目されます。

〔写真〕前方後円墳(古墳時代前期)、古墳群全景(古墳時代後期)、瓦積井戸(室町時代)

橘谷遺跡

 紀ノ川北岸の標高98m、平野部との比高差60mの丘陵南側斜面を中心に展開する弥生時代中期後葉から後期前葉の遺跡です。発掘調査により弥生時代後期前葉には、4条の平行する空堀が尾根を切断する形で存在し、同時期の竪穴建物も5棟確認されています。空堀からは投弾・投石の可能性のある自然石が出土しており、武器として使用されていた可能性が指摘されています。また、おなじ丘陵上からは銅鐸が出土するなど和歌山県を代表する高地性集落として著名です。

〔写真〕空堀、銅鐸、竪穴住居、投弾・投石

田屋遺跡

 紀ノ川北岸の平野部に形成された弥生時代後期から古墳時代にかけての集落跡です。遺跡の南部を東西に貫く一般国道24号バイパス線建設や宅地開発の際に調査が行われ、90棟を超える竪穴建物や掘立柱建物が発見され大規模な集落遺跡であることが判明しています。古墳時代中期の竪穴建物には壁際に、造り付けのカマドが設けられていますが、特に、煙道がオンドル状に長くのびる例があり、朝鮮半島との関係性がうかがわれ、調査当時は全国的に注目されました。

〔写真〕カマド、竪穴建物、須恵器(高杯)

和田遺跡

 和田遺跡は、市域南部の和田川の南岸に位置し、周辺一帯に河南条里の地割りが残る水田地帯です。県道建設にともなう平成26年(2014)からの発掘調査では、和田川により形成された微高地上で、弥生~古墳時代の井戸、溝、竪穴建物、掘立柱建物、古代~中世の井戸などが発見されました。弥生時代~古墳時代では、微高地から落ち込む地点に大量の土器が廃棄された状態でみつかりました。中世の井戸では、底で土師器の皿に白石をつめた状態でみつかり、井戸の廃棄にともなう祭祀の跡と考えられています。

〔写真〕落ち込み状遺構(土器出土状況)、中世の井戸

六十谷遺跡

 六十谷遺跡は、標高15.0m前後の段丘上に営まれた縄文時代から鎌倉時代にかけての集落跡です。遺跡内部には、北半部に推定古代南海道が東西に横断し、遺跡の南限には淡路街道(淡島街道)があります。
 六十谷遺跡では、千手川の堤防から縄文時代晩期の土器や石棒の頭部がみつかっており、遺跡の西側に鎮座する射矢止神社の周辺では、弥生時代前期から後期までの弥生土器のほか、サヌカイト製の石鏃をはじめとする石器が表採されています。
 遺跡の中央部南端で行われた発掘調査では、古墳時代前期から中期の溝やピット、平安時代から鎌倉時代の屋敷地を区画する溝などがみつかっており、平安時代の溝からは緑釉陶器の碗や中国製の白磁の碗が出土しています。紀ノ川北岸の段丘上には、推定古代南海道を通して中央との交流をもった集落が多数営まれたと考えられ、六十谷遺跡もそのうちのひとつとみられます。

〔写真〕屋敷地の区画溝