雑賀崎台場跡
雑賀崎の北端部、紀伊水道に突出した通称「トンガの鼻」と呼ばれる岬の先端部に築かれた台場跡です。調査により台場の周囲には土塁がめぐり、土塁の下には石垣が構築されている状況が判明しました。土塁に囲まれた中央部には、逆V字状の石積み遺構が確認されています。 この石積み遺構に関しては、現在のところ類例がなく、詳細は不明ですが、砲台に関連するなんらかの施設であるものと考えられます。台場の築造時期は、構築の際の整地土から出土した遺物より、18世紀後半から19世紀前半と考えられます。
〔写真〕逆V字状の石積み遺構
由良要塞跡(友ヶ島第3砲台跡)
明治政府は経済の中心地である大阪を守るため、大阪湾口部である紀淡海峡周辺に強力な洋式砲台を設置することとしました。要塞司令部が淡路島の由良地区に置かれたため総称として由良要塞と呼ばれます。友ヶ島には第1~第5の五か所に砲台が設置され、明治23年(1890)~明治37年(1904)に竣工しています。
島内の最高所周辺に設置された第3砲台は友ヶ島内の最主力砲台で、砲座・弾薬庫・電灯所・看守衛舎などが残されています。
〔写真〕友ヶ島要塞 第3砲座跡
由良要塞跡(友ヶ島第1砲台跡)
明治政府は経済の中心地である大阪を守るため、大阪湾口部である紀淡海峡周辺に強力な洋式砲台を設置することとしました。要塞司令部が淡路島の由良地区に置かれたため総称として由良要塞と呼ばれ、友ヶ島には第1~第5の五か所に砲台が設置されました。
明治23年(1890)に竣工した第1砲台は、加太・友ケ島地区では最初の砲台で、当時、最も優れていたフランス製カノン砲が備えられ、左右両翼に観測所が設置されていました。
由良要塞跡(友ヶ島第2砲台跡)
明治政府は経済の中心地である大阪を守るため、大阪湾口部である紀淡海峡周辺に強力な洋式砲台を設置することとしました。要塞司令部が淡路島の由良地区に置かれたため総称として由良要塞と呼ばれます。友ヶ島には第1~第5の五か所に砲台が設置され、明治23年(1890)~明治37年(1904)に竣工しています。
北側の防衛を目的して設置された第5砲台と第2砲台は、終戦後に爆破されていますが、全体として砲台の原型をよく留めており、明治期の国防の姿を今に伝えています。
由良要塞跡(友ヶ島第5砲台跡)
明治政府は経済の中心地である大阪を守るため、大阪湾口部である紀淡海峡周辺に強力な洋式砲台を設置することとしました。要塞司令部が淡路島の由良地区に置かれたため総称として由良要塞と呼ばれます。友ヶ島には第1~第5の五か所に砲台が設置され、明治23年(1890)~明治37年(1904)に竣工しています。
北側の防衛を目的して設置された第5砲台と第2砲台は、終戦後に爆破されていますが、全体として砲台の原型をよく留めており、明治期の国防の姿を今に伝えています。
由良要塞跡(友ヶ島第4砲台跡)
明治政府は経済の中心地である大阪を守るため、大阪湾口部である紀淡海峡周辺に強力な洋式砲台を設置することとしました。要塞司令部が淡路島の由良地区に置かれたため総称として由良要塞と呼ばれます。友ヶ島には第1~第5の五か所に砲台が設置され、明治23年(1890)~明治37年(1904)に竣工しています。
第3砲台に準じて整備された第4砲台跡には将校官舎と門柱が残されています。
〔写真〕友ヶ島要塞 第4砲台 将校官舎跡
由良要塞跡(男良谷砲台跡)
明治政府は国内の防御を進めるなかで、紀淡海峡の重要性を高く評価し、淡路島の鳴門・由良地区、和歌山市側の友ヶ島・加太地区に強力な洋式砲台を設置することとしました。
深山砲台は、加太南部の田倉崎砲台とともに本土側に設置された砲台跡です。明治37年(1904)に海岸部に竣工した男良谷砲台には、カノン砲4門が設置され、隣接して海軍の水雷発射施設も築造されていました。
由良要塞跡(深山第2砲台跡)
明治政府は国内の防御を進めるなかで、紀淡海峡の重要性を高く評価し、淡路島の鳴門・由良地区、和歌山市側の友ヶ島・加太地区に強力な洋式砲台を設置することとしました。
深山砲台は、加太南部の田倉崎砲台とともに本土側に設置された砲台跡です。明治26年(1893)竣工の第2砲台は、終戦後に爆破され、施設のほとんどは消滅しています。敷地の一角に、現在は休暇村施設が建てられ、弾薬庫や砲具庫として使用されたとみられる地下式掩蔽部が1基残されています。
由良要塞跡(深山第1砲台跡)
明治政府は国内の防御を進めるなかで、紀淡海峡の重要性を高く評価し、淡路島の鳴門・由良地区、和歌山市側の友ヶ島・加太地区に強力な洋式砲台を設置することとしました。
深山砲台は、加太南部の田倉崎砲台とともに本土側に設置された砲台跡です。北西方向の砲撃を主任務とし、明治30年(1897)に竣工した深山第1砲台には、観測所や10門からなる砲台が設置されました。
紀の川銅鐸出土地
昭和35年(1960)11月に、紀ノ川に架かる田井の瀬橋下流約400mの中州の一角で、川底の砂利を採取していた船によって、銅鐸の破片が引き上げられました。砂利をすくい上げるバケットにより強い力が加わったために、銅鐸は約40点の破片になっていますが、元は1m以上もの大型の銅鐸であったことがわかります。身には突出する線によって文様がつけられている突線鈕式と呼ばれる型式で、弥生時代の後期頃の制作と考えられます。材質分析の結果、銅約90%のほかに錫と鉛が微量成分として含まれた、銅の比率が極めて高いことが判明しています。