花山古墳群

 花山古墳群は岩橋山地の西北端に位置する花山に築かれた古墳群です。花山古墳群が立地する山地は東西約1300m、南北の最大幅約500mの規模をもつ東西に細長い山地で、最高点の標高は77.4mあります。古墳は東西にのびる主稜線上や南北に派生する各尾根の稜線上に前方後円墳9基、円墳75基の計84基が確認されていますが、その後開発等により前方後円墳3基を含む16基が破壊され消滅してしまいました。
 花山古墳群の特徴としては、岩橋千塚古墳群のなかでも前方後円墳の占める割合が高いこと、5世紀代に築造された古い時期の古墳が多いことが挙げられます。

禰宜貝塚

 和歌山市の東部、紀ノ川左岸に平野部に突き出したようにそびえる標高237mの高積山があり、高積山西方の斜面裾部の標高9m前後の場所に縄文時代の貝塚が形成されています。ボーリング調査と確認調査により、貝層は幅約10m、長さ約40mの西貝塚と幅約10m、長さ約80mの東貝塚の2列に分けられることが判明しています。
 出土品に縄文土器、石器(石鏃、石錐、削器、石匙)、イノシシの牙を利用したナイフなどがあり、土器からみて縄文時代前期が主体で中期、後期も少量みられます。貝類にはハイガイ、ヤマトシジミ、ハマグリ、獣骨にはシカ、イノシシがあります。

〔写真〕貝層の様子、イノシシ牙製ナイフ、縄文前期土器、縄文土器(関東系)

和佐山城跡

 高積山の南につらなる城ヶ峯(和佐山)の山頂に築かれた、南北朝~安土桃山時代とみられる山城跡です。南北朝時代を舞台とした軍記物語である『太平記』の「紀州龍門山軍事」に、南朝方の四条中納言隆俊が、塩屋伊勢守とともに紀の川市の最初ヶ峰に布陣し、北朝方の畠山義深がこれを討つために、和佐山に布陣したとあります。
 城跡は、東西30m、南北20mの曲輪で、南端に10m四方の櫓台があります。さらに東側に二段の曲輪を備え、北と西に畝状の竪堀があります。堀切をはさんだ西側の峰には、周囲を土塁で囲んだ跡があります。天正13年(1585)の秀吉の紀州攻めの際にも使用されたとも伝わります。

〔写真〕遠景、井戸

小倉古墳群

 小倉古墳群は山地の中腹に築かれた8基の円墳からなる古墳群です。
 このうち、1号墳は結晶片岩を用いた割石積みの横穴式石室ですが、玄室前道部分の側壁には柱状の巨石を用いています。これは近畿地方のほかの古墳と共通する構造です。1号墳からは須恵器や玉類、鉄刀、鉄鏃等が出土しています。
 また、小倉古墳群のなかで最も標高の高い位置にある8号墳は石棚が設けられるなど岩橋千塚古墳群の石室と同じ形態の石室を持っています。この8号墳からは鉄鏃や耳環が出土しています。

〔写真〕2号墳玉類、1号墳鉄鏃、2号墳須恵器

和坂南垣内古墳群

 紀ノ川の南岸、岩橋山地東端部から北方に派生する尾根端部、標高約37mに立地します。尾根部は低い鞍部によって後背の山地とは分離しており、北側の平野部に突出した独立丘陵上に6世紀後半から7世紀初頭に築造された4基以上の円墳から構成される古墳群が築かれています。
 1号墳については、直径24mを測る大型の円墳で、岩橋型横穴式石室を埋葬主体としています。

高積山遺跡

 高積山遺跡は昭和3年(1928)に発掘された埋納銭遺構です。埋納坑は深さ約60cmで、平瓦を敷いた底から約45cmまで銅銭が積まれていました。銅銭は藁に通した緡の状態であったと考えられます。なお、これらの銅銭の所在は現在不明ですが、総数10,470枚で、その大部分が宋銭であったことが分かっています。

〔写真〕高積山遠景

明楽古墳群

 明楽古墳群は明楽山の西側の尾根上にほぼ一列に造られた14基の円墳からなる古墳群です。尾根のなかほどにある2号墳は横穴式石室と竪穴式石室の二つの埋葬施設をもっています。横穴式石室の玄室の規模は長さ1.35m、幅1.82mと玄室の幅が長さよりも広いT字形をしており、須恵器や鉄製武器・武具、玉類、馬具が副葬されていました。
 また、5号墳と6号墳は比較的残りが良く、小倉1号墳と同様の結晶片岩の割石積みで、両袖部に巨石を立てた横穴式石室をもち、石室内からは副葬されていた須恵器、土師器、金環、鉄製武器・武具等が出土しています。

〔写真〕6号墳馬具・刀鍔、5号墳須恵器、2号墳鉄鏃、2号墳玉類

東国山古墳群

 東国山古墳群は5基の円墳からなる古墳群で、そのうち2基が発掘されています。1号墳は直径約15.0m、高さ4.0mの円墳で、墳丘の中央部に長さ3.5m、幅0.95m、高さ0.91mの結晶片岩を割石積みした竪穴式石室があり、石室内には木棺に納められた壮年の男女一組が葬られていました。東枕の遺体の頭部周辺から碧玉製の管玉や小玉が、西枕の遺体の左腰にあたる部分から刀子が出土していることから、東枕の遺体は女性、西枕の遺体は男性であると考えられます。なお、1号墳にはほかに須恵器や土師器、鉄鏃などの武器等が副葬されていました。特に石室の東端では須恵器の大型壷をはじめとする土器が、西端では坏蓋や提瓶等の土器が総数100点以上が集中して出土しました。
 1号墳の南に築かれた2号墳は、墳丘の北半分の封土が除去されていたため、石室が露出していました。径20.0m、高さ4.0mの円墳で、墳頂から2.5m下に床面があり、長さ3.5m、幅0.9mの割石積みの竪穴式石室をもっています。石室内からは鉄鏃の破片が出土したのみですが、1号墳と同規模の古墳であることから本来は豊富な副葬品をもっていたと考えられます。

〔写真〕1号墳出土須恵器、1号墳出土短頸壷、1号墳出土坏身、1号墳出土坏蓋

大同寺の銅製蔵骨器 附石櫃

〔種別〕工芸

 大同寺墳墓は、紀ノ川の河口に近い北岸にある南叡山大同寺の北側にある標高約50mの丘陵上に位置します。石櫃と銅製蔵骨器は天保年間(1830~43)の山崩れの際に出土したものであるため、正確な出土地点は不明ですが、銅製蔵骨器の形式から奈良時代に作られた火葬墓であると考えられます。
 銅製蔵骨器(総高19.7cm、口径29.0cm)は重圏座に宝珠型のつまみを持つ蓋と低い脚部を持つ盤状の坏身からなります。蓋の裏面中央と身の底部外面中央にはともに「生」という1字が刻されています。なお、付属の和泉砂岩製の石櫃は身と蓋からなり、中央に円形の穴が穿たれています。

〔写真〕銅製蔵骨器、蓋裏銘、石櫃

歓喜寺文書

〔種別〕書跡

 歓喜寺は、宝治2年(1248)頃僧恵鏡が京都に開創した蓮光寺に由来するといわれ、のちに歓喜寺と改称されました。正平7年(1352)頃歓喜寺の名称とともに和佐庄内薬徳寺に引継がれ現在に到っています。中世史料のほとんどない紀ノ川下流域の中世史を構成する上で不可欠な資料となっています。特に嘉暦2年(1327)の和与(訴訟における和解)関係の文書や熊野参詣者の接待に関する文書は異色の資料といえます。時代的には13世紀後半から17世紀前半にかけてのものです。

〔写真〕和佐荘下村公文得分公事注文案、僧道覚・沙弥智性連署和与状案、沙弥道珎田畠寄進状