岩橋千塚古墳群

〔種別〕特別史跡

 岩橋千塚古墳群は、岩橋山地の前山地区を中心に、花山・大谷山・大日山・寺内・井辺・井辺前山の各地区の丘陵上全体に広く分布する古墳群です。古墳の総数は700基を越え、指定地内には400基ほどの古墳が所在します。
 国内では最大規模の群集墳であり、結晶片岩を部材とする石梁や石棚を備えた特徴的な横穴式石室がみとめられることから、古墳群の一部が昭和27年(1952)に国の特別史跡に指定されています。
 古墳の築造時期は古墳時代中期から後期で、そのなかでも6世紀後半が中心です。現在確認されている古墳は前方後円墳27基、方墳4基、その他が円墳です。これらの造墓集団としては、日本書紀や古事記に記されている古代豪族紀氏が想定されています。

鳴神貝塚

〔種別〕史跡

 鳴神貝塚は紀ノ川の南岸、和歌山平野の中央部にある花山西麓に位置します。明治28年(1895)に近畿地方で初めて発見された貝塚として、昭和6年(1931)に国の史跡に指定されました。貝層の範囲は東西110m、南北100mにおよび、県内最大級の規模を誇ります。その後の調査の結果、人骨の埋葬された土坑や、縄文時代早期~前期末の貝層、縄文時代早期~晩期の土器や石器を含む包含層を確認したことから、鳴神貝塚は縄文時代早期~晩期にかけて断続的に存続した縄文時代の集落遺跡の一部であると考えられます。
 特筆すべきものとして、手足を伸ばした状態で埋葬(伸展葬)された女性人骨があり、上顎の犬歯2本を抜歯し、サルの橈骨製の耳飾りをしていたことから、シャーマンであった可能性が考えられます。

〔写真〕貝層、縄文人骨、猿の橈骨製耳飾り、骨角製品

音浦遺跡

 音浦遺跡は和歌山市の東部の花山西裾の微高地に広がる東西約0.1km、南北約0.4kmの遺跡です。遺跡の範囲は現時点では明確ではありませんが、過去の調査では古墳時代の竪穴住居や掘立柱建物、溝等が検出されており、集落遺跡であると考えられます。確認された竪穴住居14棟のうち7基に造り付けの竃があること、韓式系土器が多く出土するなど注目されます。
 また、音浦遺跡には現在の紀ノ川下流域南岸の一帯を灌漑する宮井用水が通っており、音浦分水工で3方に分流されています。音浦遺跡の発掘調査でも現在の宮井用水に関連する可能性のある水路が確認されています。
 住居址およびその周辺の遺構からは滑石製の臼玉や有孔円盤などの祭祀遺物が多数発見されているため、宮井用水や花山古墳群を背景とした祭祀遺跡としての側面も備えています。

〔写真〕竪穴住居(古墳時代)、調査区全景、土器

鳴神Ⅴ遺跡

 鳴神Ⅴ遺跡は、和歌山市東部の花山西裾の微高地に広がる東西約0.5km、南北約0.4kmの遺跡です。古墳時代の小区画水田のほか、古墳時代初頭~後期にかけての円墳・方墳、中世の井戸などが検出されています。これらの古墳は、西側に広がる秋月遺跡で確認された古墳群とともに平野部に形成された古墳群です。鳴神Ⅴ遺跡で確認された古墳からは馬歯が出土しており注目されます。

〔写真〕水田(古墳時代)、古墳(古墳時代)、井戸(鎌倉時代)

鳴神Ⅳ遺跡

 鳴神Ⅳ遺跡は、紀ノ川南岸の花山の北側に広がる東西約0.5km、南北約0.5kmの遺跡です。過去の調査では、古墳時代中期~後期の竪穴建物や後期の方墳、古代の掘立柱建物などが検出されています。なお、鳴神Ⅳ遺跡の古墳時代の集落には、音浦遺跡から展開する南側の居住域と、微高地に展開する北側の居住域という2つの異なる居住域が存在することが分かっています。

〔写真〕掘立柱建物(古代)

鳴神Ⅱ遺跡

 鳴神Ⅱ遺跡は、岩橋千塚古墳群の所在する岩橋山地に接する紀ノ川南岸の沖積地に広がる東西約0.3km、南北約0.4kmの遺跡です。過去の調査では弥生時代末~平安時代にかけての溝や奈良時代の井戸などが検出されています。特に、溝は弥生時代末に開削され、古墳時代中期に整備し、以後奈良時代~平安時代まで使用されたことが出土遺物から伺うことができ、今日の宮井用水同様に用水路として機能していたものと考えられます。なお、溝からは建築部材と考えられる屋根型の木製品や扉、斧柄や砧、杵、腰掛状木製品などが出土しています。

〔写真〕井戸(奈良時代)、腰掛状木製品、屋根形木製品

総光寺由来并太田城水責図 附総光寺中古縁起

〔種別〕絵画

 惣光寺は市内太田の南西部にある真言宗の寺院です。総光寺由来并太田城水責図(169.5cm×135.0cm)は惣光寺(総光寺)の縁起と、羽柴(豊臣)秀吉の太田城水攻め(天正13年(1585))による太田村の苦難を、太田村の村民や惣光寺の檀家に絵解きして伝えるために江戸時代に作成されたと考えられます。本図は9図から構成されており、空海による総光寺開基の説話と天正の初めの宮郷と雑賀の領地争いによる兵火で音浦(現在の花山)から現在の地(太田)に移った由来を上段に、太田城水攻めの様子を下段に描いています。原本となる絵巻があったと考えられる上段部分が右から左に場面が展開するのに対して、下段は右回りに場面が展開しています。
 また、中古縁起(36.2×661.0cm)は、水責図とともに惣光寺に所蔵され、空海による開基の説話と天正の領地争いによる兵火で現在の地に移った由来、総光寺の永意ほか数名の僧が護摩を焚く図、小牧の陣屋で永意が家康から小袖を賜る図と小牧・長久手の戦いに関する図、太田城水攻めの様子などが描かれています。水責図とともに、当地域の中世の様子を伝える資料として重要です。

〔写真〕水責図、水責図(詳細)、中古縁起(水攻め図)、中古縁起(護摩を焚く図)

薬徳寺の狛犬

〔種別〕工芸

 緑泥片岩製の小型の狛犬(像高25.5cm)で、細部の表現は写実的で破たんが少なく、全体的に小ぶりで愛らしい姿で表現されています。狛犬は本来は口を開いた阿形の獅子と角を持ち口を開いた吽形の狛犬で一対であり、口を開いた阿形の本像は獅子に相当します。台座に「長禄三年(1459)八月一日」の紀年銘があり、近世以前の在銘狛犬は珍しく非常に貴重な例と言えます。

津秦Ⅱ遺跡

 紀ノ川の南岸に位置する遺跡で、標高3.2m前後の沖積低地に弥生時代から中世の遺構が形成されています。遺跡の南端で行われた調査により、弥生時代前期の土坑、古墳時代前期の水田やそれに伴う水路、鎌倉時代の土坑や溝からなる居住域が確認されています。

〔写真〕水路と水田(古墳時代)

友田町遺跡

 紀ノ川の南岸で和歌山駅の西側に広がる遺跡です。標高2.8m前後の沖積低地に古墳時代の集落が営まれています。発掘調査により古墳時代前期の竪穴建物が1棟、古墳時代後期の掘立柱建物が5棟確認されています。掘立柱建物のなかには布堀の掘方をもつものも含まれています。また、古墳時代後期の溝からは、滑石製勾玉と剣形模造品、結晶片岩製の有孔円板など、祭祀関係遺物が出土しており注目されます。

〔写真〕掘立柱建物、滑石製品など