大円山形星兜

〔種別〕工芸

 星兜とは鉢(兜本体)を形成する鉄板をつなぎ止める鋲の頭を鉢の表面に見せたものです。平安時代中期に成立した兜の形式で、鋲の頭を「星」と呼ぶことから「星兜」の名が付きました。本資料の鉢は28枚張二方白で、鍬形台および鍬形は金銅、眉庇黒塗銅覆輪とし、しころ二段、本小札、赤韋威からなります。鉢の形式、金具、全体の装飾などに鎌倉時代の特色がよく表れています。

和歌祭仮面群 面掛行列所用品

 〔種別〕彫刻

 紀州東照宮では、徳川家康の命日にあたる4月17日に春の祭礼である和歌祭がおこなわれています。今日でも、「雑賀踊」「餅搗踊」「面掛」など多くの練り物行列が行われていますが、江戸時代には舞楽や田楽などの芸能も奉納されていました。この「和歌祭仮面群」は渡御行列に加わる練り物の一つである「面掛」に使用された仮面(96面)です。和歌祭の「面掛」は行列に参加する仮面の多さから「百面」とも呼ばれ、和歌祭の練り物の中でも特異な存在です。
 紀州東照宮には、この「面掛」に使用される能面・狂言面・神楽面・鼻高面など96面が伝わっており、これらの面の中には仮面の裏側に「方廣作」という銘文を持つ鎌倉時代末期から南北朝時代にさかのぼる可能性のある神事面をはじめ、室町時代に製作されたと考えられる古風な様式を持った能面・狂言面、近世初頭の有力な面打である「出目満庸有閑(天下一有閑)」が製作した能面など中世~近世の仮面の展開を考える上で重要な情報を有しています。

〔写真〕尉「方廣作」(神事面)、大飛出「出目満庸有閑(天下一有閑)」、和歌祭仮面群

歓喜寺文書

〔種別〕書跡

 歓喜寺は、宝治2年(1248)頃僧恵鏡が京都に開創した蓮光寺に由来するといわれ、のちに歓喜寺と改称されました。正平7年(1352)頃歓喜寺の名称とともに和佐庄内薬徳寺に引継がれ現在に到っています。中世史料のほとんどない紀ノ川下流域の中世史を構成する上で不可欠な資料となっています。特に嘉暦2年(1327)の和与(訴訟における和解)関係の文書や熊野参詣者の接待に関する文書は異色の資料といえます。時代的には13世紀後半から17世紀前半にかけてのものです。

〔写真〕和佐荘下村公文得分公事注文案、僧道覚・沙弥智性連署和与状案、沙弥道珎田畠寄進状

丹生廣良氏所蔵天野文書

〔種別〕書跡

 丹生家は丹生都比売神社の旧社家で、歴代同神社の神職家です。当家には200余点に及ぶ古文書が伝来しており、そのうち経済史、文化史上の貴重な資料である中世文書46点を10巻に表現したものが本品です。内容は平安時代から江戸時代に及ぶ多彩なもので、大半が丹生都比売神社にゆかりのあるものです。特に第一巻の丹生祝氏本系帳は丹生氏の家系と大神への奉仕の由来を述べた貴重なものです。

絹本著色当麻曼荼羅図

〔種別〕絵画

 室町時代の宝徳2年(1450)に開基された総持寺は浄土宗西山派の寺院です。絵解きの寺とも呼ばれる総持寺では当麻曼荼羅をはじめとする絵を用いて人々に開祖である法然の極楽往生の教えを広めていました。当麻曼荼羅とは奈良の当麻寺に伝わる中将姫伝説のある根本曼荼羅の図像に基づいて作られた阿弥陀如来が住むという極楽浄土の様子を描いた浄土図のことです。

金銅五鈷鈴

〔種別〕工芸

 五鈷鈴とは、密教の修法に用いられる金剛杵と呼ばれる法具のひとつです。金剛杵は中央部が握り手(把部)で両端(鈷部)に刃がついた古代インドの武器に由来します。五鈷鈴は柄の部分に鈷部が五つに分かれた金剛杵がついた鈴のことです。本資料(高16.2cm、口径6.5cm)は、把部中央の円形の鬼目が横長で、鈴部分(鈴身)の上部と把部には蓮弁が彫られています。鈷部の張りが弱く、全体として小ぶりな印象がありますが、整然としたつくりの優品です。

〔写真〕金銅五鈷鈴、五鈷鈴 各部位名称

蓬莱鏡

〔種別〕工芸

 直立した周縁と中央に紐通しの孔である花形の鈕をもつ円形の青銅製の鏡(径32.5cm)です。鏡の背面には伸びやかな筆致で上半に双鶴を、左に巌にのった亀、右に老松、下方に州浜を描いています。このような鏡の背面におめでたい文様である鶴亀と松などを組み合わせた図柄を描いた鏡を蓬莱鏡といい、室町時代~江戸時代にかけて大変流行しました。本鏡は亀と双鶴の大きさが同じである等、定形化する前の蓬莱鏡の姿をよく残しています。

絹本著色釈迦三尊像

〔種別〕絵画

 本図は六角框檀上の蓮華座に坐った釈迦如来(縦138.5cm、横63.0cm)、化仏のついた高い宝冠をいただき、左手に如意を持って獅子に騎乗した文殊菩薩(縦121.0cm、横48.5cm)、頭頂に三天人を乗せた白象に騎乗し、両手で蓮華の茎を持った普賢菩薩(縦121.0cm、横48.5cm)の三尊をそれぞれ独立した一幅に描き分けた作品です。三尊の着衣等には様々な裁金文様が施され、三鈷杵を並べた文様帯を付した光背や宝冠、装身具には金箔が用いられるなどきらびやかに荘厳されています。着衣の形式や両菩薩の図像に宋画の釈迦三尊像の影響が伺えるほか、釈迦と文殊の肉身に金泥を塗るのに対し、普賢の肉身は白く表すなど1セットの作品の中で表現に違いがみられます。

〔写真〕普賢菩薩坐像、釈迦如来坐像、文殊菩薩坐像

金銅造丸鞘太刀 中身無銘

〔種別〕工芸

 淡島神社に伝世した金銅造丸鞘太刀(身長73.7cm、鞘長87.88cm、柄長22.4cm)は鎌倉時代に定着した実戦用の形式の太刀です。現在は失われていますが、本来は帯に下げる為の鎖編みにした兵庫鎖の帯取りが付いていました。柄から鞘までを金銅装とした拵で、鎬造庵棟の刀身が付属します。松藤文兵庫鎖太刀(文化庁所蔵)と比べると金銅装に文様が施されておらず、帯取り金具や石突をはじめとする金具類にも文様が彫られていないなど全体的に簡素な拵となっています。鎌倉時代の絵画や文献史料には記載がありますが、実物の類品の数はあまりありません。

〔写真〕金銅造丸鞘

太刀 銘来国俊

〔種別〕工芸

 初代藩主徳川頼宣の佩刀と伝えられる太刀で、明治9年(1876)3月、旧藩主徳川茂承が南龍神社に奉納し、のちに南龍神社が東照宮に合祀されたため、東照宮の所蔵となったものです。刀身(身長72.4cm、反り2.5cm)は鎌倉時代末期の京都の刀工・来国俊の典型的な作で、直刃に小のたれ交じりの刃文を持ちます。なお、奉納当初から拵は付属しておらず、現在も白鞘に納められています。

〔写真〕刀身