小倉古墳群

 小倉古墳群は山地の中腹に築かれた8基の円墳からなる古墳群です。
 このうち、1号墳は結晶片岩を用いた割石積みの横穴式石室ですが、玄室前道部分の側壁には柱状の巨石を用いています。これは近畿地方のほかの古墳と共通する構造です。1号墳からは須恵器や玉類、鉄刀、鉄鏃等が出土しています。
 また、小倉古墳群のなかで最も標高の高い位置にある8号墳は石棚が設けられるなど岩橋千塚古墳群の石室と同じ形態の石室を持っています。この8号墳からは鉄鏃や耳環が出土しています。

〔写真〕2号墳玉類、1号墳鉄鏃、2号墳須恵器

山口遺跡

 山口遺跡は、古代の寺院跡である山口廃寺の南で、近世の山口御殿跡の北西に位置します。また南方には東西方向に古代の南海道が想定され、遺跡内に熊野古道がとおる交通の要衝でもあります。県道建設にともなう平成5年(1993)からの発掘調査では、おもに古墳時代初頭、飛鳥時代、中世の集落跡が発見されました。特に飛鳥時代では、山口廃寺の造営直前の時期の掘立柱建物群が発見され、寺院の造成にともなって廃絶し、寺院の近くに移動した可能性があります。

〔写真〕平成5年(1993)調査全景、堀立柱建物

田屋遺跡

 紀ノ川北岸の平野部に形成された弥生時代後期から古墳時代にかけての集落跡です。遺跡の南部を東西に貫く一般国道24号バイパス線建設や宅地開発の際に調査が行われ、90棟を超える竪穴建物や掘立柱建物が発見され大規模な集落遺跡であることが判明しています。古墳時代中期の竪穴建物には壁際に、造り付けのカマドが設けられていますが、特に、煙道がオンドル状に長くのびる例があり、朝鮮半島との関係性がうかがわれ、調査当時は全国的に注目されました。

〔写真〕カマド、竪穴建物、須恵器(高杯)

和田遺跡

 和田遺跡は、市域南部の和田川の南岸に位置し、周辺一帯に河南条里の地割りが残る水田地帯です。県道建設にともなう平成26年(2014)からの発掘調査では、和田川により形成された微高地上で、弥生~古墳時代の井戸、溝、竪穴建物、掘立柱建物、古代~中世の井戸などが発見されました。弥生時代~古墳時代では、微高地から落ち込む地点に大量の土器が廃棄された状態でみつかりました。中世の井戸では、底で土師器の皿に白石をつめた状態でみつかり、井戸の廃棄にともなう祭祀の跡と考えられています。

〔写真〕落ち込み状遺構(土器出土状況)、中世の井戸

六十谷古墳群

 和泉山脈から派生する尾根の標高96~105mの位置に築かれた2基の古墳からなります。
 1号墳は墳丘の封土が遺存せず、円筒埴輪片が微量出土するのみでありました。岩盤整形された形からみて、本来直径10mほどの円墳であったと推定されます。
 2号墳は、くびれ部の葺石、埴輪列が遺存し、前方後円墳であったことが判明しました。全長約27m、後円部径約17mで、円筒埴輪、形象埴輪(家、盾、衣笠)が出土しており、5世紀初頭頃の築造とみられます。

〔写真〕2号墳東くびれ部(葺石と埴輪列)、2号墳西くびれ部(葺石、埴輪列)、2号墳西埴輪列、1号墳

六十谷遺跡

 六十谷遺跡は、標高15.0m前後の段丘上に営まれた縄文時代から鎌倉時代にかけての集落跡です。遺跡内部には、北半部に推定古代南海道が東西に横断し、遺跡の南限には淡路街道(淡島街道)があります。
 六十谷遺跡では、千手川の堤防から縄文時代晩期の土器や石棒の頭部がみつかっており、遺跡の西側に鎮座する射矢止神社の周辺では、弥生時代前期から後期までの弥生土器のほか、サヌカイト製の石鏃をはじめとする石器が表採されています。
 遺跡の中央部南端で行われた発掘調査では、古墳時代前期から中期の溝やピット、平安時代から鎌倉時代の屋敷地を区画する溝などがみつかっており、平安時代の溝からは緑釉陶器の碗や中国製の白磁の碗が出土しています。紀ノ川北岸の段丘上には、推定古代南海道を通して中央との交流をもった集落が多数営まれたと考えられ、六十谷遺跡もそのうちのひとつとみられます。

〔写真〕屋敷地の区画溝

楠見遺跡

 昭和42年(1967)の楠見小学校校舎増築工事の際に多くの土器が発見され、昭和44年(1969)に小学校中庭で発掘調査が実施されました。出土した土器は古墳時代の須恵器に似ていますが国内で類例が求められないことより、以前は朝鮮半島からもたらされた陶質土器の可能性が高いとみられ「楠見式」と呼ばれました。壺・甕・器台・高杯などに多用されたシャープな突線に特徴があり、特にヘラ・櫛により飾られた器台が有名です。朝鮮半島の洛東江中下流の加耶地域との類似性が指摘され、渡来系の人々により製作された初期須恵器とみられます。

〔写真〕出土した土器類、土器出土状況、器台出土状況

晒山古墳群

 大谷古墳がある背見山の支尾根に分布する古墳群で、10基が確認されています。土取り工事により消滅の危機にさらされ、昭和43年(1968)から関西大学考古学研究室により緊急に発掘調査が行われました。2号墳と10号墳(背見山古墳)が前方後円墳で、その他は円墳と考えられています。1号墳は粘土槨、2号墳は木棺直葬や土坑墓、3号墳は礫槨、4号・10号墳は横穴式石室を主体とするなど、埋葬施設はさまざまで、築造時期も5世紀前半から6世紀後半まで時期幅がありますが、なかでも大谷古墳や背見山古墳を中心として、5世紀末から6世紀前半に集中しています。現在、6・7号墳が現地に保存されています。

〔写真〕1号墳粘土槨、1号墳玉類出土状況(勾玉・管玉・臼玉)、2号墳前方部土坑墓の須恵器出土状況、3号墳礫槨

高芝1号墳

 和泉山脈から南へ伸びる尾根上に築かれた古墳で、直径約8mの円墳です。和歌山大学移転工事の際に、発掘調査され、和泉砂岩の石材を使用した横穴式石室が確認されました。残された側壁と石材の抜き取り穴の形態からみて、玄室は長さ約2.4m、幅約1.25mで、幅の狭い羨道が取り付く形態であったとみられます。出土品には須恵器(平瓶、杯蓋、杯身)、耳環(2点)があり、須恵器は7世紀中頃~8世紀初頭の年代が想定されます。紀ノ川北岸域の終末期の古墳例であり、盛土をした後に和歌山大学グランド南側に復元整備されています。

〔写真〕横穴式石室、須恵器出土状況、耳環出土状況

茶臼山古墳

 茶臼山古墳は、東に隣接する車駕之古址古墳・釜山古墳とともに、釜山古墳群(木ノ本古墳群)を形成しています。土地開発により、墳丘はほとんど削られていますが、周辺に残る地割りや発掘調査から、5世紀中頃の前方後円墳(前方部が短い帆立貝式)である可能性が強まっています。後円部の直径は約36mで、墳丘の裾には葺石が確認されています。また前方部の外堤には円筒埴輪列が発見されました。

〔写真〕円筒埴輪、外堤の円筒埴輪列、後円部の葺石