ヘンリー杉本作日系人収容所油彩画

ヘンリー杉本(杉本譲/1900~1990)が描いた日系人収容所を題材とする絵画群です。アメリカで画家として認められ始めていたヘンリーは、太平洋戦争が勃発すると日系人収容所に送られましたが、そこでの日系収容人の生活をリアルに描きました。これらの絵画はのちに戦争史の一端を示す「ドキュメンタリー絵画」としてアメリカで高く評価されているだけでなく、和歌山の移民史を紐解く資料としても価値の高いものであると考えられます。

写真
ヘンリー杉本「切望」Longing1944年/ヘンリー杉本「息子の負傷」My Son Hurt

和歌の浦

〔種別〕名勝・史跡

 和歌の浦は、和歌山市の南西部、和歌川河口に展開する干潟・砂嘴・丘陵地からなり、万葉集にも詠われた風光明媚な環境にあります。近世以降は紀州藩主らにより神社・仏閣等が整備・保護され、日本を代表する名所・景勝地として多くの人々が訪れるようになりました。
 玉津島神社、塩竃神社、天満神社、東照宮、海禅院などの神社仏閣を中心とし、周辺の奠供山、妹背山、三断橋、芦辺屋・朝日屋跡、鏡山、御手洗池公園、不老橋などを含む面積約10.2haが「名勝・史跡」として県指定を受け、その後、平成22年(2010)8月に玉津島神社、海禅院、不老橋など海岸干潟周辺一帯が国の名勝指定を受け、さらに平成26年(2014)10月6日に東照宮・天満神社周辺が国の名勝として追加指定を受け、県指定(名勝・史跡)範囲のほぼ全域(約99.2ha)が国の名勝としても指定を受けることになりました。

〔写真〕奠供山から望む和歌川河口

保田紙の製作用具

〔種別〕有形民俗

 紀州藩初代藩主の徳川頼宣が製紙業の復興を命じ、有田郡の山保田組大庄屋の笠松左太夫が奈良の吉野から製紙技術を導入し、清水で盛行させたのが、保田紙の由来とされています。
 紀州藩の御用紙として納められていた保田紙は、大正から昭和初期に最盛期をむかえ、400軒もの紙漉き屋が軒を連ねたといわれます。昭和28年(1953)の紀州大水害で有田川が氾濫して大きな打撃を受け、またその頃から和紙の需要が減少したことにより、製紙業が衰退しました。
 近年は伝統技術として復興され、継承されています。保田紙の製作用具は、和歌山県立紀伊風土記の丘が、民具の調査で収集しました。

日高地域の地曳網漁用具及び和船

〔種別〕有形民俗

 地曳網とは、アミブネとよばれる和船2艘が、沖合いの同一の場所から網を置きながら左右に分かれて魚群を包囲し、両端の網を陸からひいて魚を獲る漁法です。近世初頭には漁法が確立し、紀伊半島の沿岸漁業の主要な位置を占め、特に日高郡周辺の漁村に多く分布していました。県立紀伊風土記の丘が平成11~12年(1999~2000)に、日高町産湯地区で地曳網漁の民具、和船、網元経営の文献がそろった一括資料として収集しました。

〔写真〕和船、漁業用具、漁業用具

関口新心流柔術・居合術・剣術

 関口流は、江戸時代初めに開かれた古武道の一つで、現代の柔道・合気道・剣道・居合を含む総合武術です。関口家は流祖から代々、紀州藩の指南役をつとめました。全国に伝播した関口流の源流が、和歌山の関口新心流とされています。柔術・居合術・剣術あわせて89本の型が、現在も関口新心館道場に継承されています。全ての技が「揚柳」ともいう柔らかな力の使い方をもとに組み立てられています。

木ノ本の獅子舞

〔種別〕無形民俗

 木ノ本の獅子舞は、木ノ本にある木ノ本八幡宮の祭礼に奉納されるもので、500年の伝統があると伝わります。木ノ本地区は、古くは今から1300年前に奈良の大安寺により開拓され、その後東大寺の寺領となり、八幡宮が一帯の鎮守となったとされています。青年二人が雄獅子の胴衣に入って演ずる、勇壮活発な獅子舞です。特に地上5mに渡した2本の青竹の上を舞うダンジリ上の舞いが有名です。獅子が谷底に蹴落とした我が子の這い上がってくる姿を待ちながら、谷底をのぞく様子を演出しています。

〔写真〕ダンジリ上の舞い、木ノ本地区内での舞い

団七踊

〔種別〕無形民俗

団七踊は、岡崎地区一円に伝わる盆踊りです。江戸時代の寛永年間(1624~1645)、奥州白石郡坂戸村で悪代官志賀団七に殺された与太郎の娘が仇討ちを遂げた事件が江戸歌舞伎となり、たまたま紀州藩主に随行して江戸に上った岡崎の郷士がこれを観劇し、謡と踊りに仕組んで、郷土芸能となったものです。さらし踊り・なぎなた踊りは、父の仇討ちを遂げるために武道にはげむ様子を演じたものであり、その後に団七踊りの仇討ちの場面となります。

和歌の浦

〔種別〕名勝

 名勝和歌の浦は、和歌山市南部の海岸部の和歌川河口一帯に展開する干潟・砂嘴、一群の島嶼および周辺の丘陵地などからなる歴史的景勝地です。
 神亀元年(724)の聖武天皇の行幸に際して山部赤人が詠んだ「若の浦に しお満ちくれば 潟を無み 芦辺をさして 鶴鳴き渡る」という名歌により万葉集の歌枕の地となり、以来、文人墨客のあこがれの地となりました。また、江戸時代においては東照宮や天満神社、三断橋をはじめとする紀州藩による寺社等の建造物の整備によって、広く庶民の遊覧、参詣の地として地域を代表する名所となりました。

〔写真〕奠供山から望む和歌浦、玉津島神社、和歌川河口の干潟、不老橋

和歌祭仮面群 面掛行列所用品

 〔種別〕彫刻

 紀州東照宮では、徳川家康の命日にあたる4月17日に春の祭礼である和歌祭がおこなわれています。今日でも、「雑賀踊」「餅搗踊」「面掛」など多くの練り物行列が行われていますが、江戸時代には舞楽や田楽などの芸能も奉納されていました。この「和歌祭仮面群」は渡御行列に加わる練り物の一つである「面掛」に使用された仮面(96面)です。和歌祭の「面掛」は行列に参加する仮面の多さから「百面」とも呼ばれ、和歌祭の練り物の中でも特異な存在です。
 紀州東照宮には、この「面掛」に使用される能面・狂言面・神楽面・鼻高面など96面が伝わっており、これらの面の中には仮面の裏側に「方廣作」という銘文を持つ鎌倉時代末期から南北朝時代にさかのぼる可能性のある神事面をはじめ、室町時代に製作されたと考えられる古風な様式を持った能面・狂言面、近世初頭の有力な面打である「出目満庸有閑(天下一有閑)」が製作した能面など中世~近世の仮面の展開を考える上で重要な情報を有しています。

〔写真〕尉「方廣作」(神事面)、大飛出「出目満庸有閑(天下一有閑)」、和歌祭仮面群

和歌祭祭礼所用具

〔種別〕工芸

 紀州東照宮では、徳川家康の命日(4月17日)に、春の祭礼である和歌祭が行われています。今日でも、「雑賀踊」「餅搗踊」「面掛」など多くの練り物行列が行われていますが、江戸時代には舞楽や田楽などの芸能も奉納されていました。
 和歌祭祭礼所用具は「常装束」に分類される舞楽装束類、特定の舞楽の曲目に使用される装束や楽器類、舞楽とは異なる芸能に関する道具類の3種に分類されます。このうち、袍・半臂・下襲・表袴・踏掛・鳥甲等からなる「常装束」は右方(半島系曲目・緑色系装束)、左方(大陸系曲目・赤色系装束)ともにほぼ10組ずつ確認され、和歌祭の楽人装束として使用された可能性が高いものです。「常装束」は染織や刺繍の技法的特徴が大阪市天王寺舞楽所用具と近似することから、和歌祭に舞楽が取り入れられた寛永7年(1630)頃の製作と考えられます。また、「新靺鞨」「林歌」の装束に関しては、拝領装束として紀州東照宮に伝来したものとみられます。
 これらの拝領装束は、「和歌祭祭礼御行列書」の文政8年(1825)の条に「林歌」の曲目が掲載されていること、文政期の第十代藩主徳川治宝が雅楽や舞楽を愛好したことから、文政期に制作された可能性が高いと考えられます。

〔写真〕半臂、鳥兜 、常装束部位名称図