奥山田遺跡

 和歌山市東部の紀ノ川南岸の低丘陵に立地する遺跡で、宅地造成に伴い発掘調査がおこなわれました。発掘調査の結果、弥生時代の竪穴住居や横穴式石室を埋葬施設とする古墳時代後期の古墳群、平安~鎌倉時代の建物跡などが発見されました。
 発見された7基の古墳からは6~7世紀の須恵器、鉄器(鉄鏃、刀子)、耳環、玉類(ガラス玉、土玉)が出土し、金層ガラス玉の採集品もあります。平安~鎌倉時代には整然とした建物配置を示し、周辺には小鍛冶をおこなっていたとみられる鍛冶炉が3基確認されました。

〔写真〕竪穴住居(弥生時代)、横穴式石室(古墳時代)、掘立柱建物(平安~鎌倉時代)、6号墳出土遺物(古墳時代)

秋月遺跡

 秋月遺跡は、紀伊一ノ宮である日前宮を中心とした遺跡です。これまでに日進中学校や向陽高等学校内などで発掘調査が行われ、弥生時代前期の土坑、古墳時代前期の竪穴建物、古墳時代前期~後期の古墳群、日前宮やその東西にかつてあった貞福寺・神宮寺に関わる可能性がある古代~中世の遺構が発見されました。とくに古墳時代では、墳丘は残存せず周溝のみですが、前期の前方後円墳、中期の方墳、後期の円墳があり、長期間にわたり古墳がつくり続けられたことがわかりました。
 1km西の丘陵上には岩橋千塚古墳群があり、丘陵上の古墳群と平地の古墳群という違いが注目されます。

〔写真〕前方後円墳(古墳時代前期)、古墳群全景(古墳時代後期)、瓦積井戸(室町時代)

寺内古墳群

 国指定の特別史跡である岩橋千塚古墳群の所在する岩橋山地の南斜面に分布する古墳群です。総数96基の古墳のうち、確認されたものは円墳で横穴式石室を主体とするものが多い傾向にあります。粘土槨や木棺直葬を埋葬主体とする直径約20mの寺内63号墳は5世紀中頃の築造とみられ、短甲・鉄剣・鉄鏃が出土しました。直径35~40mとみられる寺内57号墳は大型の横穴式石室をもち、全長約29mの前方後円墳である寺内18号墳には、後円部と前方部にそれぞれ1基ずつの横穴式石室(うち1基はT字形石室)が築かれていました。

〔写真〕56号墳(横穴式石室)、56号墳(玄室内須恵器出土状況)、85号墳(横穴式石室)

井辺前山古墳群

 岩橋山地の南西に位置する福飯ヶ峰の北斜面は前山と呼ばれており、この周辺が岩橋千塚古墳群の井辺前山地区とされています。北側に多くの古墳があり、南側は果樹園として開墾されています。
 約50基の古墳が分布し、このうち3号墳、6号墳、7号墳、10号墳(井辺八幡山古墳)、24号墳が前方後円墳で、その他はほとんどが円墳です。また福飯ヶ峰の北東には森小手穂埴輪窯跡があります。北側の平野部に位置する井辺遺跡では、古墳時代前期を中心とした集落跡が発見されています。

〔写真〕井辺遺跡から東に井辺前山古墳群(右前方)を望む

花山古墳群

 花山古墳群は岩橋山地の西北端に位置する花山に築かれた古墳群です。花山古墳群が立地する山地は東西約1300m、南北の最大幅約500mの規模をもつ東西に細長い山地で、最高点の標高は77.4mあります。古墳は東西にのびる主稜線上や南北に派生する各尾根の稜線上に前方後円墳9基、円墳75基の計84基が確認されていますが、その後開発等により前方後円墳3基を含む16基が破壊され消滅してしまいました。
 花山古墳群の特徴としては、岩橋千塚古墳群のなかでも前方後円墳の占める割合が高いこと、5世紀代に築造された古い時期の古墳が多いことが挙げられます。

小倉古墳群

 小倉古墳群は山地の中腹に築かれた8基の円墳からなる古墳群です。
 このうち、1号墳は結晶片岩を用いた割石積みの横穴式石室ですが、玄室前道部分の側壁には柱状の巨石を用いています。これは近畿地方のほかの古墳と共通する構造です。1号墳からは須恵器や玉類、鉄刀、鉄鏃等が出土しています。
 また、小倉古墳群のなかで最も標高の高い位置にある8号墳は石棚が設けられるなど岩橋千塚古墳群の石室と同じ形態の石室を持っています。この8号墳からは鉄鏃や耳環が出土しています。

〔写真〕2号墳玉類、1号墳鉄鏃、2号墳須恵器

六十谷古墳群

 和泉山脈から派生する尾根の標高96~105mの位置に築かれた2基の古墳からなります。
 1号墳は墳丘の封土が遺存せず、円筒埴輪片が微量出土するのみでありました。岩盤整形された形からみて、本来直径10mほどの円墳であったと推定されます。
 2号墳は、くびれ部の葺石、埴輪列が遺存し、前方後円墳であったことが判明しました。全長約27m、後円部径約17mで、円筒埴輪、形象埴輪(家、盾、衣笠)が出土しており、5世紀初頭頃の築造とみられます。

〔写真〕2号墳東くびれ部(葺石と埴輪列)、2号墳西くびれ部(葺石、埴輪列)、2号墳西埴輪列、1号墳

晒山古墳群

 大谷古墳がある背見山の支尾根に分布する古墳群で、10基が確認されています。土取り工事により消滅の危機にさらされ、昭和43年(1968)から関西大学考古学研究室により緊急に発掘調査が行われました。2号墳と10号墳(背見山古墳)が前方後円墳で、その他は円墳と考えられています。1号墳は粘土槨、2号墳は木棺直葬や土坑墓、3号墳は礫槨、4号・10号墳は横穴式石室を主体とするなど、埋葬施設はさまざまで、築造時期も5世紀前半から6世紀後半まで時期幅がありますが、なかでも大谷古墳や背見山古墳を中心として、5世紀末から6世紀前半に集中しています。現在、6・7号墳が現地に保存されています。

〔写真〕1号墳粘土槨、1号墳玉類出土状況(勾玉・管玉・臼玉)、2号墳前方部土坑墓の須恵器出土状況、3号墳礫槨

高芝1号墳

 和泉山脈から南へ伸びる尾根上に築かれた古墳で、直径約8mの円墳です。和歌山大学移転工事の際に、発掘調査され、和泉砂岩の石材を使用した横穴式石室が確認されました。残された側壁と石材の抜き取り穴の形態からみて、玄室は長さ約2.4m、幅約1.25mで、幅の狭い羨道が取り付く形態であったとみられます。出土品には須恵器(平瓶、杯蓋、杯身)、耳環(2点)があり、須恵器は7世紀中頃~8世紀初頭の年代が想定されます。紀ノ川北岸域の終末期の古墳例であり、盛土をした後に和歌山大学グランド南側に復元整備されています。

〔写真〕横穴式石室、須恵器出土状況、耳環出土状況

茶臼山古墳

 茶臼山古墳は、東に隣接する車駕之古址古墳・釜山古墳とともに、釜山古墳群(木ノ本古墳群)を形成しています。土地開発により、墳丘はほとんど削られていますが、周辺に残る地割りや発掘調査から、5世紀中頃の前方後円墳(前方部が短い帆立貝式)である可能性が強まっています。後円部の直径は約36mで、墳丘の裾には葺石が確認されています。また前方部の外堤には円筒埴輪列が発見されました。

〔写真〕円筒埴輪、外堤の円筒埴輪列、後円部の葺石