岡山の時鐘堂

〔種別〕史跡

 紀州藩五代藩主徳川吉宗の時代の正徳2年(1712)に建立されました。当時は、市内本町に浅野幸長の時に作られた時鐘屋敷があり、南北で呼応して一刻ごとに時を報知したといわれますが、現在は、この時鐘堂しか残されていません。
 この鐘は、藩士の登城と町民に刻限を知らすほか、出火、出水、異国船の出没など、非常時をいち早く知らせる重要な役目をもっていました。石段を登ると西向きに出入口があり、一階は土間で、四隅に二階までの通し柱があり、二階の大梁の中心から梵鐘が釣り降ろされ、撞木によって東西二ケ所から鐘を鳴らすようになっています。屋根は寄棟造の本瓦葺です。
 梵鐘は、元は大坂夏の陣で豊臣方が使用し、その後紀州藩が管理していた大筒を二代藩主光貞が、紀州粉河の鋳物師に命じて改鋳させたものとされます。

旧中筋家住宅(主屋、表門、御成門、長屋蔵、北蔵、内蔵)

 和佐地区に所在する江戸時代の大庄屋の屋敷跡で、敷地は東西約40m、南北約57mと広大で周囲を土塀で囲まれています。屋敷地東側と南側には堀のような水路がめぐり、敷地東側は、熊野参詣道に面しています。主屋は嘉永5年(1852)の建築で、平面形は、一部三階建ての取り合い部を挟んで、西側に土間と台所、北側に20畳の大広間、東側に座敷部が配置されています。敷地内には指定された建物のほかにも、味噌部屋、茶室、人力車庫などがあります。平成12年(2000)から約10年間にわたって保存修理事業を行ない、平成22年(2010)8月から一般公開しています。

〔写真〕主屋、主屋表中庭、御成門、長屋蔵

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東照宮本殿・石の間・拝殿

 和歌浦権現山にあり、紀州藩初代藩主徳川頼宣が元和5年(1619)に紀州に入国した翌年に景勝地の和歌浦に造営したもので、家康並びに頼宣の二公を祀っています。東照宮社殿の構造は日光東照宮にならって豪華絢爛に装飾され「紀州日光」と称されます。
 本殿は権現造りと呼ばれるもので、本殿と拝殿の中間に一段低い石の間という建物を置くのが特徴で、この建物は江戸時代前期の権現造りの代表例です。本殿は桁行三間、梁間三間、入母屋造り、拝殿は桁行五間、梁間二間、入母屋造りで正面に千鳥破風を設けています。これらは総檜皮葺の建物で、内部は朱塗漆、本殿の欄間装飾には怪獣、鳥魚、四季の草花の彫刻を施し、蟇股や木鼻にも精密な意匠をこらしています。拝殿も本殿と同様に、建物の細部まで装飾されています。

〔写真〕本殿全景、本殿と唐門、本殿

旧谷山家住宅(主屋・倉)

 元は、海南市下津町塩津の浜に建てられていた魚家で、棟札により寛延2年(1749)に建てられことがわかります。敷地の形に合わせて建てられたため、正面が背面よりも二間ほど広くなっています。屋根は切妻造、妻入りで、正面に庇がつき、主屋の西側には別棟の西倉が接続します。桁行二間半、梁間二間の西倉は、長い漁具を入れるため二階造りとせず、漁船の古板などを床に敷き詰めています。魚家として古いものに属し、全体の姿がよく保存され、建築年代の判明する大変貴重な例であります。現在、県立紀伊風土記の丘に移設されています。

〔写真〕外観、ダイドコとザシキ、二階ザシキ、倉

旧柳川家住宅(主屋・前蔵)

 元は、漆器の産地として名高い海南市黒江にあった建物で、文化4年(1807)に普請されたとされます。柳川家は代々平兵衛を名乗り、大庄屋をつとめた家柄でありました。本家は西面から入り、裏に座敷がのび、南面はもと入江で、船着場になっていたといわれます。外観は切妻造、本瓦葺で、一・二階とも前面は格子をはめています。この建物は、よく保存され、デザインも実用的ながら大変優れ、本県の町屋の代表的なものです。現在、県立紀伊風土記の丘に移設されています。

〔写真〕外観、ミセとニワ、ミセとミセオク、床構え

太田城水攻め堤跡

 紀ノ川南岸の出水に現在もその残存部分が残っています。天正13年(1585)におこなわれた秀吉の太田城水攻めの際に築かれた堤防の跡で、周囲を標高2~3mの平野に取り囲まれており、あたかも海に浮かぶ小島のような景観です。
 遺跡の中心に位置する出水堤の測量調査がおこなわれており、その結果出水堤は基底部の幅31.0m、長さ45.0m、高さ5.0mを測る大規模なものであったことが判明しました。太田城跡から約500mの距離を隔て側面を向けており、頂上は標高7.1mを測り、周辺で最も標高が高い場所です。

山口御殿跡

 和歌山市の北東部、市立山口小学校・幼稚園敷地内に位置します。中世末期頃に当地域の有力者であった易井喜内氏の旧宅跡に、紀州入りした徳川氏が山口御殿と呼ばれる別邸を建築したとされます。
 江戸時代後期に記された『紀伊国名所図会』などによると、遠侍(武士の詰め所)や書院などの建物のほか、御供部屋・御台所などがあり、周囲には堀が築かれ、江戸時代の参勤交代の際に、歴代藩主や幕府の使者の休憩所として利用されたとみられます。学校敷地内の発掘調査では、山口御殿に関係するとみられる堀の一部や井戸、礎石、埋桶、土塀などが見つかっています。
 山口御殿は、明治2年(1869)の廃藩置県によって、建物は順次、取り壊されましたが、明治6年(1873)に山口小学校が開校した際に、遠侍1棟が校舎として使われました。現在、山口御殿に由来するとみられる石橋や鬼瓦が山口小学校に残されています。

〔写真〕土塀の基礎(2条の石列部分)、鬼瓦、石橋

鷺ノ森遺跡

 和歌山市の中央部に位置する浄土真宗西本願寺派である鷺森別院の周囲に所在する鷺ノ森遺跡は、現地表面から約60cm下の江戸時代末期の生活面から約2.5m下の古墳時代の生活面まで6~7面の生活面が存在します。これまでの調査では、古墳時代の溝、飛鳥時代の竪穴建物や掘立柱建物、鎌倉時代の井戸、戦国時代の堀、江戸時代の建物礎石や井戸、鍛冶関連遺構など各時代の生活跡が発見され、これらに伴う膨大な量の遺物が出土しています。戦国時代の堀は約17m、深さ3mに及ぶ大規模なもので、当時の本願寺の方向と合致します。

〔写真〕戦国時代の堀、石建物跡

和歌山城 西之丸庭園(紅葉渓庭園)

〔種別〕名勝

 西の丸は、江戸時代に能舞台や茶室等が存在し、藩主が数寄や風雅を楽しむ場所として機能しました。その中でも南西部に築かれた西之丸庭園は、天守の建つ虎伏山の急峻な斜面を利用し、滝石組を中心に立石を多く据え、豪快に作庭しています。渓状地形を利用して小さい方の「上の池」を掘り、柳島を配置して内堀を大きな池に見立てた池泉回遊式の庭園です。庭園南西の高台には、離れ座敷の「聴松閣」と茶室の「水月軒」が建てられており、藩主が茶室から庭園全体を見渡しながら茶を楽しむような造りになっていたと考えられます。
 通説では紀州徳川家初代の徳川頼宣の命による作庭としますが、徳川家以前の城主であった浅野家の家老上田宗固による作庭との説もあります。
 昭和48年(1973)に庭園を整備し、昭和60年(1985)国の名勝に指定されました。毎年秋になると庭園内の紅葉が見事に色づく事から「紅葉渓庭園」とも呼ばれています。

〔写真〕内堀と鳶魚閣、内堀と御橋廊下、鎮壇具

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和歌山城 岡口門

 岡口門は史跡和歌山城内の南東部に位置します。築城期から浅野氏が大手を一の橋に変えるまでは大手門でした。現在の門は、元和7年(1621)に城を拡張した際に、整備したと考えられています。櫓門の形式で、延長40mの土塀(附指定)が北側に続き、12か所の銃眼を設けています。

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