弥勒菩薩坐像

 紀三井寺の本堂内には須弥壇(しゅみだん)上の宮殿型厨子(くうでんがたずし)のほかに4つの脇壇があり、この弥勒菩薩坐像は左脇壇(わきだん)の阿弥陀如来坐像(あみだにょらいざぞう)の脇侍(わきじ)です。
 引き締まった頭部の輪郭に眦(まなじり)の切れ上がった溌溂(はつらつ)とした風貌(ふうぼう)を示し、体部では節々にやや緩(ゆる)みがあるものの緊張感を残すことなどから、鎌倉時代後期(13世紀末~14世紀初頭)の菩薩坐像として優れた水準の作行(さくい)きを示すものであると考えられます。
 また、令和元年~3年度に実施された「紀三井寺悉皆(しっかい)調査」により紀三井寺と京や南都との関りの深さが確認されており、本作はこうした中央との関りが窺(うかが)える遺品としても極めて重要です。

多宝小塔

 2段の基壇(きだん)上に安置される木製宝塔(ほうとう)で、屋根の頂(いただき)には火焔宝珠(かえんほうじゅ)を置く相輪(そうりん)を具え、上層の軸部は円形で、亀腹(かめばら)の上に回縁(まわりぶち)・高欄(こうらん)をめぐらしています。初層の軸部は方形で、四方の観音開(かんのんびら)きの扉には葵紋(あおいもん)を、長押上小壁(なげしうえこかべ)・方立板(ほうだていた)等には龍等の彫り物を配するなど、桃山期以降の建築彫刻の技法が取り入れられています。
 初層には火焔宝珠型舎利容器(しゃりようき)をはじめとする舎利容器を安置し、上層には奥書(おくがき)に紀州藩第7代藩主宗将(むねのぶ)の生母永隆院(えいりゅういん)の菩提(ぼだい)を弔(とむら)うために宝暦13年(1763)に造立(ぞうりゅう)したこと、紀三井寺中興(ちゅうこう)の方常上人(ほうじょうしょうにん)によって供養(くよう)されたことが記された宝篋印陀羅尼経(ほうきょういんだらにきょう)が安置(あんち)されています。
 このように桃山期以降の建築彫刻の技法を取り入れた大型の多宝小塔の優品として貴重であるだけでなく、江戸時代における紀三井寺と藩主との関わりがうかがえる作例として極めて重要であるといえます。

千手観音立像

 紀三井寺の本堂厨子(ずし)前に立つお前立ちの千手観音立像です。
 頭部をやや小さく表し、一見すらりとした細身ですが、体躯(たいく)の抑揚(よくよう)を強調しないブロック状の体型で、眦(まなじり)の切れ上がった意志的な風貌(ふうぼう)や裙(くん)の折り返し部の衣の端(はし)が細かく揺(ゆ)らぐ表現など、南北朝時代の作風をよく示しています。特に像表面を赤味がかった染料で染め、檀像(だんぞう)風に仕上げる檀色の技法を用いていることは特徴的で、秘龕仏(ひがんぶつ)千手観音像が素木(しらき)仕上げであることを踏まえた選択とみられます。
 令和元年から3年度に実施された「紀三井寺悉皆(しっかい)調査」により確認された、和歌山市域では類例の少ない貴重な南北朝時代(14世紀半ば)の等身大の作例です。

圓珠院資料

 圓珠院は紀州徳川家初代の頼宣(よりのぶ)の命により京都愛宕社(あたごしゃ)から和歌山城の鬼門(きもん)の護り、城下の火伏(ひぶせ)として勧請(かんじょう)された愛宕権現社(あたごごんげんしゃ)の別当寺です。和歌山城や歴代藩主の護持(ごじ)に関連する祈祷(きとう)や法要(ほうよう)を行うなど江戸時代を通じて藩と緊密な関係を結んできた紀州徳川家ゆかりの寺院であることから、6代藩主宗直(むねなお)書写の「紺紙金字般若心経(こんしきんじはんにゃしんぎょう)」や弁天堂(べんてんどう)および本堂(旧愛宕社)内の宮殿型厨子(くうでんがたずし)をはじめとする藩主やその周辺の人々が関わった遺品が多く残されています。また、享保年間の愛宕社の屋根葺替は城下の人々から広く寄付を募っておこなわれており、それに関連する台帳等が残されています。この享保の修繕における体制は以後、「享保の先例」とされ直近の明治30年代の境内建替えにまで引き継がれてきたことが圓珠院に遺された文書群からうかがうことができます。
 圓珠院資料は和歌山市内に残る数少ない紀州徳川家との関係が明確にうかがわれる資料群であるだけでなく、社寺の修復における勧進の実態がうかがえる資料群でもあるという点においても重要です。

_(写真) 紺紙金字般若心経/弁財天・毘沙門天・大黒天三尊像/将軍地蔵・毘沙門天・不動明王三尊像/本堂(旧愛宕社)宮殿型厨子

天部立像

 本堂厨子後方の小壇に安置される榧(かや)とみられる一材(いちざい)から彫り出した寺伝では観音菩薩と伝えられてきた像です。やや厳しさを残した風貌(ふうぼう)、量感のある立ち姿など10~11世紀の作風を示しています。蓋襠衣(がいとうえ)をまとった天部の姿は、紀三井寺の縁起(えんぎ)において為光上人(いこうしょうにん)に七種の宝を授けた竜神を思わせるところがあります。
 このように紀三井寺の縁起とも関連するような造形であるというだけでなく、和歌山市内では数少ない10~11世紀の貴重な作例といえます。

地蔵菩薩立像

 穏やかで端正な相貌(そうぼう)を持ち、右手に錫杖(しゃくじょう)、左手に宝珠(ほうじゅ)を持って踏割蓮華座(ふみわりれんげざ)上に立ち、画面左上から飛雲(ひうん)に乗って飛来(ひらい)する地蔵菩薩像です。輪郭を金泥(きんでい)の隈(くま)で立体的に
表した雲斗(うんと)や精緻な截金(きりかね)文様を施した着衣(ちゃくえ)、錫杖や装身具などを彫塗(ほりぬり)であらわすなど、全体的に華やかさの中に静謐(せいひつ)な趣を湛えるなど鎌倉時代後期仏画の特色がよく表れています。鎌倉時代には六道救済(りくどうきゅうさい)の仏として地蔵菩薩への信仰が高まり、特に南都(奈良)では、春日三宮の本地仏(ほんちぶつ)を地蔵とすることもあり、地蔵菩薩像が多く造られました。
 なお、宝珠を高く捧げ、雲斗にのる点などから快慶の地蔵菩薩像の系譜を引くと考えられます。地蔵菩薩立像は令和元年~2年度に実施された調査により新たに発見された和歌山県内における数少ない中世仏画の優品であるだけでなく、中世における紀三井寺と南都との関りが窺(うかが)える遺品として極めて貴重です。

玉津島神社本殿附脇障子

 和歌山市和歌浦に鎮座する玉津島神社の創建は明らかではありませんが、神亀元年(724)に聖武天皇が和歌浦に行幸し「玉津島之神、明光浦の霊」を春秋二回祀るように詔を出したことが記録に残っています。平安期から中世には、貴族や歌人などにとって、和歌浦や玉津島は「和歌の聖地」として、特別な崇敬を集めていたようです。中世には社殿を持たない神社だった可能性も指摘されていますが、慶長11年(1606)には浅野幸長により社殿が造営され、次いで紀州徳川家初代頼宣(よりのぶ)が社領を寄進し、拝殿の建立するなど近世の初めには神社が整備されていきました。
 現在の本殿は一間社隅木入り春日造り、檜皮(ひわだ)葺きで、奠供山(てんぐやま)の中腹に、東を向いて建っています。本殿の正面と側面に縁を設け擬宝珠(ぎぼし)高欄(こうらん)(柱に擬宝珠をつけてある欄干)を据え、背後に脇障子が入り、向拝(こうはい)を海老虹梁(えびこうりよう)で社殿本体と繋いでいます。彫刻の入った蟇股(かえるまた)や木鼻(きばな)、外部全面を彩色仕上げとし、飾金具をちりばめるなど、社殿全体が装飾性豊かに飾られています。現本殿の建立年代は明確でありませんが、玉津島神社には、近世初頭の復興、明和3年(1766)の祭礼再興、19世紀前半の10代藩主治宝(はるとみ)による和歌浦の整備など、いくつかの画期があり本殿の建築様式には、これらの画期と符合するような特徴があることから、慶長11年(1606)の浅野氏によるに造営以後、二度にわたる大改修を経て、現在の姿となったと推定できます。

(写真)本殿 正面、本殿 背面、向拝 龍の装飾、右脇障子彫刻 修理前

紀三井寺参詣曼荼羅・熊野観心十界曼荼羅

 紀三井寺参詣曼荼羅は室町時代の終わり頃に天変地異や兵乱で荒廃した紀三井寺を再 建するために紀三井寺の霊験譚や、功徳をわかりやすく説明し、ひとびとから喜捨(寄付)を 募るための絵解きに用いられました。画面中央には横一列に紀三井寺の名の由来となった 「楊柳水」「清浄水」「吉祥水」が、縦軸に「為光上人と龍女」などの紀三井寺の縁起や霊験譚 が描かれるなど紀三井寺を中心とした信仰空間が一幅の中に見事に演出されています。ま た、名草山を背景とし、本堂を中心に鐘楼や多宝塔、楼門等の現在も残る堂宇だけでなく、 割拝殿や大鳥居といった現存しない堂宇も描かれるなど往時の紀三井寺の姿を今に伝え る貴重な資料でもあります。
「熊野観心十界曼荼羅」は人間が生まれてから死ぬまでの段階を表した「老ノ坂(おいのさか)」を画面上方に大きく描き、「心」字の円相、四聖、六道、その他様々な地獄の光景を表した絵画です。
「熊野観心十界曼荼羅」は「那智参詣曼荼羅(なちさんけいまんだら)」等の「社寺参詣曼荼羅(しゃじさんけいまんだら)」と一対(いっつい)のものとして伝っている事例が多く、「熊野観心十界曼荼羅」で地獄の恐ろしさを絵解きし、「参詣曼荼羅」で功徳(くどく)と救いを絵解きした姿を物語るものであると考えられます。この「熊野観心十界曼荼羅」も「紀三井寺参詣曼荼羅」と一対のものとして伝来したものです。紀三井寺をはじめとする西国巡礼の札所(ふだしょ)(11ヵ寺)に遺る「社寺参詣曼荼羅」と「熊野観心十界曼荼羅」は、戦国時代の動乱により疲弊荒廃した社寺が復興を目指し、その為の勧進活動の一環として絵解きを行っていたことをよく示しています。
(写真) 紀三井寺参詣曼荼羅、熊野観心十界曼荼羅

玉津島神社文書

 玉津島神社文書は藩主徳川頼宣からの社領寄進状、春秋祭礼に関する吉田家からの祭式勘文、祭礼に必要な幔幕等の寄進等のほか、神社の由緒書き上げ等の由来、宝物、社格に関する一群、江戸中期には禁裏から同社の春秋祭礼に使者が派遣されるようになり、この代参に関する一群、奠供山拝所など社頭整備、営繕関係および卯の日講関係の古文書・古記録からなる一群、祈祷・祝詞等宗教活動に関する古文書・古記録からなる一群、神主高松家、および国学に関係する古文書・古記録からなる一群により構成されています。
 現在玉津島神社は国名勝「和歌の浦」の重要な核として位置づけられており、「玉津島神社文書」は、「和歌の浦」を構成する同神社の、江戸時代における整備と維持の過程を示しています。とりわけ、玉津島神社は徳川幕藩体制下の地方神社でありながら、朝廷・公家世界の人々との交流を示す古文書・古記録・記念物が数多く残されていることに大きな特徴があります。

〔写真〕国主社領寄進状、春秋祭礼、祓具図説

玉津島神社奉納和歌

 玉津島神社は和歌三神の一柱である玉津嶋明神(衣通姫)を主神とすることから、古くから和歌の道の上達を祈願した奉納があり、それらに関連する資料が数多く残されています。特に、玉津島神社に残る江戸時代の和歌関係の資料の一群は玉津島神社と宮廷歌壇、紀州徳川家、地下歌人との結びつきの深さをうかがわせる貴重な資料です。
 なかでも天皇が古今伝授(『古今和歌集』の秘伝の伝授)を受けた後に公家衆とともに詠んだ「古今伝授御法楽五十首和歌」の和歌短冊は後西天皇が後水尾上皇から古今伝授を受けた際の「寛文四年御法楽奉納和歌短冊」にはじまり光格上皇から仁孝天皇への古今伝授である「天保十三年御法楽奉納和歌短冊」までのものが奉納されています。また、「仙洞御所月次奉納和歌巻」は霊元上皇の仙洞御所で玉津島神社、住吉大社の両社に奉納するために催された月次歌会の奉納和歌を巻子にしたもので、元禄3年(1690)6月~6年(1693)5月までの3年分を「玉津島神社月次御法楽和歌巻」として玉津島神社に奉納したことがわかっています。
 そのほか、「吹上八景手鑑」は冷泉家第十四代為久が紀州藩六代藩主徳川宗直に贈った吹上八景に関する和歌を息子である冷泉家十五代為村が書写したもので、これも玉津島神社を媒介とした宮廷歌壇と紀州徳川家との結びつきを物語る好例となっています。

〔写真〕古今伝授御法楽五十首和歌短冊、仙洞御所月次奉納和歌巻、吹上八景手鑑