紀三井寺の三井水(清浄水)

〔種別〕名勝

 紀三井寺護国院の境内で、名草山の中腹の古道に沿って「清浄水」「楊柳水」「吉祥水」の3つの清泉があり、「三井水」として古来から貴ばれ、寺名の由来ともなっています。慶安3年(1650)には、紀州藩初代藩主の徳川頼宣によって修復されたとされ、文化9年(1812)刊行の『紀伊国名所図会』には「三瀑泉」とあり、天保10年(1839)刊行の『紀伊続風土記』には「境内三の清泉あり」と記されています。また昭和60年(1985)には、環境庁の名水百選に選ばれています。
 清浄水は三井水のうち中央にあり、護国院表坂の楼門をくぐり石段を登ると右側の西向に滝口があります。寺伝によると紀三井寺を開山した為光上人の前に、竜宮の乙姫が現れ説法を乞うて、清浄水に没したとあります。

紀三井寺の三井水(楊柳水)

 〔種別〕名勝

 紀三井寺護国院の境内で、名草山の中腹の古道に沿って「清浄水」「楊柳水」「吉祥水」の3つの清泉があり、「三井水」として古来から貴ばれ、寺名の由来ともなっています。慶安3年(1650)には、紀州藩初代藩主の徳川頼宣によって修復されたとされ、文化9年(1812)刊行の『紀伊国名所図会』には「三瀑泉」とあり、天保10年(1839)刊行の『紀伊続風土記』には「境内三の清泉あり」と記されています。また昭和60年(1985)には、環境庁の名水百選に選ばれています。
 楊柳水は三井水のうち南に位置し、清浄水から南へ100mの山腹にあります。近代には荒廃が進みましたが、昭和60年代に企業家により整備され、復興をとげました。

紀三井寺の三井水(吉祥水)

〔種別〕名勝

 紀三井寺護国院の境内で、名草山の中腹の古道に沿って「清浄水」「楊柳水」「吉祥水」の3つの清泉があり、「三井水」として古来から貴ばれ、寺名の由来ともなっています。慶安3年(1650)には、紀州藩初代藩主の徳川頼宣によって修復されたとされ、文化9年(1812)刊行の『紀伊国名所図会』には「三瀑泉」とあり、天保10年(1839)刊行の『紀伊続風土記』には「境内三の清泉あり」と記されています。また昭和60年(1985)には、環境庁の名水百選に選ばれています。
 吉祥水は三井水のうち北にあり、境内北端の裏坂の山門から旧熊野街道を北へ100mにある祠から、さらに山腹を東に60m登ると滝口があります。昭和初期に土砂崩壊に見舞われましたが、近年には地元有志の手で復興をとげています。

三十六歌仙額 狩野興甫画

〔種別〕絵画

 中世以来、和歌神として尊崇された玉津島神社には和歌に関するものをはじめとして優れた文化財が数多く伝えられています。三十六歌仙とは寛弘年間(1004~1011)のころに藤原公任が撰した『三十六人撰』の歌人(柿本人麻呂、山部赤人、紀貫之ほか)を指します。鎌倉時代以降、盛んに三十六歌仙の歌に各々の肖像を描いたものが製作され、室町時代以降は、玉津島神社の三十六歌仙額のような扁額に描くものが多く作られました。
 本額(各55.5cm×41.8cm×4.0cm)は初代紀州藩主徳川頼宣の寄進によるもので、歌仙絵の絵師は紀州藩のお抱え絵師であった狩野興甫、詠歌は当時能書家として知られた京都の公家や門跡が筆を執り、詠歌筆者を示す付札は紀州藩の儒臣李梅渓が務めるなど、制作の経緯が詳細に判明する点で重要です。

〔写真〕山部赤人、小野小町、紀友則

関戸古墳

 和歌山市の南部、和歌浦湾に面して東西約2.5km、南北約0.5kmの天神山丘陵が位置します。本古墳は天神山丘陵から北へ派生する尾根の基部付近、標高約40mに築かれた直径約14mの円墳です。南に開口する横穴式石室が残されており、長さ2.4m、幅1.7mの玄室に長さ3.3mの羨道が付いています。本格的な調査歴はありませんが、踏査の際に水晶製切子玉1点、ガラス小玉1点が採集され、石室形態により6世紀代の後期古墳と考えられています。

〔写真〕玄室、奥壁、羨道

徳川家康所用装束類

〔種別〕工芸

 徳川家康所用品として紀州徳川家に伝来していた装束類で、徳川頼宣が奉納したものと明治4年(1871)に徳川茂承により奉納されたものがあります。特に、萌葱地葵紋散し狩衣、蜀江錦法被、白地紗綾葵紋繍帯の3点はいずれも能に用いられる装束で、葵紋附黒漆塗箱に入って伝来してきたことから、セットで制作されたものと考えられます。

〔写真〕萌葱地葵紋散し狩衣、蜀江錦法被

東照宮楼門・東西廻廊

 三間一戸で入母屋造、本瓦葺の楼門は、正面の108段の石階段に面して建てられ、東西には廻廊が接しています。4本の円柱の上に三間二面の二階をのせ、本殿と同じ元和年間(1615~1624)の建立です。東西廻廊は、それぞれ桁行三間、梁間二間、切妻造、本瓦葺の建物で、外観は楼門と南北の壁面半間ずつが接するため一体のように見えますが、楼門とは別の建物です。

東照宮唐門・東西瑞垣

 社殿正面に檜皮葺の唐門があり、唐門の東西には檜皮葺の瑞垣が連なります。唐門には本殿と同様に彫刻・極彩色・漆塗などの装飾が施されています。瑞垣は朱漆塗りの透塀造りで、東瑞垣には掖門と呼ばれる小さな門がつきます。

〔写真〕唐門と瑞垣、唐門

天満神社 末社多賀神社本殿、末社天照皇太神宮・豊受大神宮本殿

 両本殿は、本殿東側後方の覆屋内に建っています。建立年代についての資料はありませんが、様式・手法をみて慶長再興時のものとみられます。多賀神社本殿は一間社春日造、檜皮葺、末社天照皇太神宮・豊受大神宮本殿は二間社流造、檜皮葺で、ともに土台上に建ち浜縁を設けています。蟇股や庇の象鼻などに進んだ手法がみられます。

〔写真〕天満神社 末社多賀神社本殿、末社天照皇太神宮・豊受大神宮本殿

天満神社楼門

 急勾配の階段を登ったところに楼門が建ち、東西廻廊がこれに接しています。天正13年(1585)秀吉の兵火の後、慶長10年(1605)に藩主浅野幸長により再建されました。
 4本の円柱をもつ一間一戸の楼門で、入母屋造、本瓦葺の建物です。一階の柱間が一間にもかかわらず、桁行三間、梁間二間の二階をのせた珍しい構造の建物で、全体に禅宗様式を取り入れた美しい楼門です。なお、本殿、楼門等の造営には江戸幕府御大工の平内吉政、政信親子が当たったとされます。

〔写真〕楼門