天満神社 末社多賀神社本殿、末社天照皇太神宮・豊受大神宮本殿

 両本殿は、本殿東側後方の覆屋内に建っています。建立年代についての資料はありませんが、様式・手法をみて慶長再興時のものとみられます。多賀神社本殿は一間社春日造、檜皮葺、末社天照皇太神宮・豊受大神宮本殿は二間社流造、檜皮葺で、ともに土台上に建ち浜縁を設けています。蟇股や庇の象鼻などに進んだ手法がみられます。

〔写真〕天満神社 末社多賀神社本殿、末社天照皇太神宮・豊受大神宮本殿

天満神社楼門

 急勾配の階段を登ったところに楼門が建ち、東西廻廊がこれに接しています。天正13年(1585)秀吉の兵火の後、慶長10年(1605)に藩主浅野幸長により再建されました。
 4本の円柱をもつ一間一戸の楼門で、入母屋造、本瓦葺の建物です。一階の柱間が一間にもかかわらず、桁行三間、梁間二間の二階をのせた珍しい構造の建物で、全体に禅宗様式を取り入れた美しい楼門です。なお、本殿、楼門等の造営には江戸幕府御大工の平内吉政、政信親子が当たったとされます。

〔写真〕楼門

天満神社本殿

 天満神社は和歌浦天神山の中腹にあり、菅原道真を祀り、和歌浦一帯の氏神となっています。道真が、延喜元年(901)に大宰府に流されるとき、風波を避けて、和歌浦に立ち寄ったと言われ、唐保年間(964年頃)に橘直幹が大宰府から帰る時、この浦にとまって社殿を創建したのに始まると伝えられます。現在の社殿は、天正13年(1585)の羽柴(豊臣)秀吉の兵火による焼失の後、慶長11年(1606)に藩主浅野幸長によって再建されました。本殿は桁行五間、梁間二間、入母屋造、檜皮葺の建物で、正面に千鳥破風と三間の向拝がつきます。本殿の装飾には、極彩色を施し、周囲には動物、植物、波などの彫刻のある蟇股がついています。装飾が華麗で、安土桃山時代の特徴をよく表しています。

〔写真〕本殿、本殿詳細

護国院(紀三井寺)楼門

 寺伝によれば室町時代末期の永正6年(1509)に建立され、永禄2年(1559)に修理が加えられたとされます。その後、何度も修理を受け、細部には安土桃山時代以降の様式も見受けられます。入母屋造、本瓦葺の建物で、下階中央部に扉がなく、開放されています。間口三間、奥行二間の規模をもち、切石の礎石上に円柱を建て、正面両脇には仁王像を安置しています。

護国院(紀三井寺)鐘楼

 桁行三間、梁間二間、入母屋造で本瓦葺の建物です。天正16年(1588)に安部六太郎により再建されたといわれ、細部の様式も安土桃山時代の特徴をよく示しています。下層に切石の基壇を築き、野面石の上に4本の角柱を建て、合せ目にさらに細い板を重ねる目板張りの袴腰をつけています。上層の柱は正面三間、側面二間で柱間には縦連子窓をはめ、軒の破風板には蕪懸魚をつけています。本堂への参道の右手山側にあり、全体に軽快な感じのする建物です。

〔写真〕護国院(紀三井寺)鐘楼

和歌の浦

〔種別〕名勝・史跡

 和歌の浦は、和歌山市の南西部、和歌川河口に展開する干潟・砂嘴・丘陵地からなり、万葉集にも詠われた風光明媚な環境にあります。近世以降は紀州藩主らにより神社・仏閣等が整備・保護され、日本を代表する名所・景勝地として多くの人々が訪れるようになりました。
 玉津島神社、塩竃神社、天満神社、東照宮、海禅院などの神社仏閣を中心とし、周辺の奠供山、妹背山、三断橋、芦辺屋・朝日屋跡、鏡山、御手洗池公園、不老橋などを含む面積約10.2haが「名勝・史跡」として県指定を受け、その後、平成22年(2010)8月に玉津島神社、海禅院、不老橋など海岸干潟周辺一帯が国の名勝指定を受け、さらに平成26年(2014)10月6日に東照宮・天満神社周辺が国の名勝として追加指定を受け、県指定(名勝・史跡)範囲のほぼ全域(約99.2ha)が国の名勝としても指定を受けることになりました。

〔写真〕奠供山から望む和歌川河口

護国院(紀三井寺)多宝塔

 寺伝によれば、以前にあった塔が嘉吉元年(1441)の風害により倒壊したが、文安6年・宝徳元年(1449)に再建の勧進が行われているので、この頃建立されたものとみられます。下層が方形、上層が円形の平面形をもつニ重の塔で、最上部の相輪は鋳鉄製で、四隅に鎖を張り風鐸を釣っています。上層部は直径2.45mで、白漆喰などでまんじゅう形に固めた亀腹の上に円形に高欄をめぐらしています。本瓦葺の三間多宝塔で各種の絵様、彫刻、須弥壇とも室町時代中期の様式手法を示しています。

〔写真〕護国院(紀三井寺)多宝塔、二階部分

護国院(紀三井寺)本堂

 紀三井寺にある金剛宝寺護国院は救世観音宗で、西国観音霊場三十三所の第二番の札所の紀三井寺として有名です。寺伝によれば、宝亀元年(770)に唐の僧為光上人が日本で旅しているなかで、この地に寺を創建し、自作の十一面観音像を本尊としたとされます。現在の本堂は、棟札によれば宝暦9年(1759)に大衆の協力によって建立されたもので、桁行五間、梁間五間、正面に三間の向拝をもつ入母屋造の本瓦葺の建物です。江戸時代末期の建築ですが、総欅造で建築技術も優秀であり、紀ノ川沿いのこの時代のもとしては、粉河寺本堂とともに代表的な大建築物といえます。

東照宮本殿・石の間・拝殿

 和歌浦権現山にあり、紀州藩初代藩主徳川頼宣が元和5年(1619)に紀州に入国した翌年に景勝地の和歌浦に造営したもので、家康並びに頼宣の二公を祀っています。東照宮社殿の構造は日光東照宮にならって豪華絢爛に装飾され「紀州日光」と称されます。
 本殿は権現造りと呼ばれるもので、本殿と拝殿の中間に一段低い石の間という建物を置くのが特徴で、この建物は江戸時代前期の権現造りの代表例です。本殿は桁行三間、梁間三間、入母屋造り、拝殿は桁行五間、梁間二間、入母屋造りで正面に千鳥破風を設けています。これらは総檜皮葺の建物で、内部は朱塗漆、本殿の欄間装飾には怪獣、鳥魚、四季の草花の彫刻を施し、蟇股や木鼻にも精密な意匠をこらしています。拝殿も本殿と同様に、建物の細部まで装飾されています。

〔写真〕本殿全景、本殿と唐門、本殿

和歌の浦

〔種別〕名勝

 名勝和歌の浦は、和歌山市南部の海岸部の和歌川河口一帯に展開する干潟・砂嘴、一群の島嶼および周辺の丘陵地などからなる歴史的景勝地です。
 神亀元年(724)の聖武天皇の行幸に際して山部赤人が詠んだ「若の浦に しお満ちくれば 潟を無み 芦辺をさして 鶴鳴き渡る」という名歌により万葉集の歌枕の地となり、以来、文人墨客のあこがれの地となりました。また、江戸時代においては東照宮や天満神社、三断橋をはじめとする紀州藩による寺社等の建造物の整備によって、広く庶民の遊覧、参詣の地として地域を代表する名所となりました。

〔写真〕奠供山から望む和歌浦、玉津島神社、和歌川河口の干潟、不老橋