太田城水攻め堤跡

 紀ノ川南岸の出水に現在もその残存部分が残っています。天正13年(1585)におこなわれた秀吉の太田城水攻めの際に築かれた堤防の跡で、周囲を標高2~3mの平野に取り囲まれており、あたかも海に浮かぶ小島のような景観です。
 遺跡の中心に位置する出水堤の測量調査がおこなわれており、その結果出水堤は基底部の幅31.0m、長さ45.0m、高さ5.0mを測る大規模なものであったことが判明しました。太田城跡から約500mの距離を隔て側面を向けており、頂上は標高7.1mを測り、周辺で最も標高が高い場所です。

鷺ノ森遺跡

 和歌山市の中央部に位置する浄土真宗西本願寺派である鷺森別院の周囲に所在する鷺ノ森遺跡は、現地表面から約60cm下の江戸時代末期の生活面から約2.5m下の古墳時代の生活面まで6~7面の生活面が存在します。これまでの調査では、古墳時代の溝、飛鳥時代の竪穴建物や掘立柱建物、鎌倉時代の井戸、戦国時代の堀、江戸時代の建物礎石や井戸、鍛冶関連遺構など各時代の生活跡が発見され、これらに伴う膨大な量の遺物が出土しています。戦国時代の堀は約17m、深さ3mに及ぶ大規模なもので、当時の本願寺の方向と合致します。

〔写真〕戦国時代の堀、石建物跡

和佐山城跡

 高積山の南につらなる城ヶ峯(和佐山)の山頂に築かれた、南北朝~安土桃山時代とみられる山城跡です。南北朝時代を舞台とした軍記物語である『太平記』の「紀州龍門山軍事」に、南朝方の四条中納言隆俊が、塩屋伊勢守とともに紀の川市の最初ヶ峰に布陣し、北朝方の畠山義深がこれを討つために、和佐山に布陣したとあります。
 城跡は、東西30m、南北20mの曲輪で、南端に10m四方の櫓台があります。さらに東側に二段の曲輪を備え、北と西に畝状の竪堀があります。堀切をはさんだ西側の峰には、周囲を土塁で囲んだ跡があります。天正13年(1585)の秀吉の紀州攻めの際にも使用されたとも伝わります。

〔写真〕遠景、井戸

城山遺跡

 紀ノ川北岸の和泉山脈から派生する尾根先端部に立地する山城跡です。主郭部分は周囲の集落より30mの高所に位置します。地元では「擂鉢山」と呼ばれ、雨乞いを行った場所であったといわれていましたが、発掘調査の結果、方形の土塁がめぐり、その南側に四本柱の門礎石と考えられる遺構や内側に建物の痕跡が検出されなかったこと、また円錐形の鉛塊(インゴット)が出土したことなどから、織豊時代の特徴を持つ陣城であった可能性が高いと考えられます。

〔写真〕城山遺跡、インゴット

和歌山城跡

 和歌山城跡は、和歌山市和歌山城周辺に所在する近世の武家屋敷である三の丸を中心とした遺跡です。
 和歌山城の南東部を調査した折には、江戸時代末期の『和歌山城下町図』に描かれた百軒長屋の敷地東辺を区画する溝を、紀州徳川家家老水野家の屋敷地跡の調査では、礎石立建物や基礎石組、石組溝等の屋敷地に関係する遺構群を検出しています。
 和歌山地方・家庭・簡易裁判所の新庁舎建設にあたり実施された発掘調査では、屋敷地境界施設や井戸・石組枡・暗渠などの水周り施設が確認されています。また、その下層では古墳時代や鎌倉時代の遺物のほか、室町時代の土坑墓や粘土採掘穴とみられる遺構がみつかっており、和歌山城築城以前にも人間の活動痕跡が認められます。

〔写真〕水野家家紋軒瓦、水野家屋敷地、水野家屋敷地出土遺物

鳴神Ⅳ遺跡

 鳴神Ⅳ遺跡は、紀ノ川南岸の花山の北側に広がる東西約0.5km、南北約0.5kmの遺跡です。過去の調査では、古墳時代中期~後期の竪穴建物や後期の方墳、古代の掘立柱建物などが検出されています。なお、鳴神Ⅳ遺跡の古墳時代の集落には、音浦遺跡から展開する南側の居住域と、微高地に展開する北側の居住域という2つの異なる居住域が存在することが分かっています。

〔写真〕掘立柱建物(古代)

和歌の浦

〔種別〕名勝

 名勝和歌の浦は、和歌山市南部の海岸部の和歌川河口一帯に展開する干潟・砂嘴、一群の島嶼および周辺の丘陵地などからなる歴史的景勝地です。
 神亀元年(724)の聖武天皇の行幸に際して山部赤人が詠んだ「若の浦に しお満ちくれば 潟を無み 芦辺をさして 鶴鳴き渡る」という名歌により万葉集の歌枕の地となり、以来、文人墨客のあこがれの地となりました。また、江戸時代においては東照宮や天満神社、三断橋をはじめとする紀州藩による寺社等の建造物の整備によって、広く庶民の遊覧、参詣の地として地域を代表する名所となりました。

〔写真〕奠供山から望む和歌浦、玉津島神社、和歌川河口の干潟、不老橋

唐物茶壷 銘 華山(利休在判)・楊柳・小面・佐藤

〔種別〕工芸

 徳川将軍家からの拝領品として紀州徳川家に伝来したものを、明治4年(1871)5月に徳川茂承により東照宮に寄進されたものです。これらの茶壺は総高40cm前後で、壺の肩に耳を四つ付け、胴上がりに波状文を施したルソンなどの東南アジアを介して日本にもたらされたいわゆる呂宋(ルソン)壺と呼ばれる中国南部製の唐物茶壺です。それぞれに「華山」「楊柳」「小面」「佐藤」という銘があり、利休の花押のあるものや豊臣秀吉旧蔵品など、由緒正しい名物茶壺です。

 〔写真〕唐物茶壷銘華山、唐物茶壷銘楊柳

牡丹唐草文様金華山裂

〔種別〕工芸

 口覆とは茶の湯で「口切の茶事」などの際に用いる茶壺の口の部分を覆って飾るための四角い裂のことで、金蘭や緞子、錦等の格調高い裂が用いられます。東照宮には「華山」「楊柳」「小面」「佐藤」の銘を持つ四口の茶壺が伝えられており、それらはいずれも「呂宋壺」と呼ばれる唐物茶壺です。口覆は袷仕立てとなっており、いずれも表地は牡丹唐草文様金華山裂の同一の裂から裁断されたもので、裏地は「華山」と「小面」には赤地平絹、「楊柳」と「佐藤」には紫地平絹が用いられています。

〔写真〕華山、楊柳

紺地宝尽小紋小袖、藍地花菱唐草文散絞小袖、白地葵紋綾小袖

〔種別〕工芸

 紀州徳川家の初代藩主である頼宣が和歌浦に建立した東照宮には家康所用品が数多く遺されています。紺地宝尽小紋小袖は袷仕立てとした綿入れの小袖で、七宝や小槌、橘などの宝尽くし文様を藍による型染めであらわした平絹を表地にし、薄浅葱地の平絹を裏地にしたものです。藍地花菱唐草文散絞小袖は袷仕立てとした綿入れの小袖で、藍地の羽二重に絞染で大胆な花菱唐草文をあしらった裂を表地にし、薄浅葱地の平絹を裏地にしたもので、表地の絞染は安土桃山時代に流行した辻が花染の面影を残しています。白地葵紋綾小袖は袷仕立てで、胸前の2か所と袖後ろの2か所、背中の上部との計5か所に紋所風の葵紋を織りだした白地綾を表地に用い、白地の羽二重を裏地に用いています。なお、これらの類似品に当たるものが尾張徳川家や水戸徳川家にも家康所用品として伝来しています。

〔写真〕藍地花菱唐草文散絞小袖、紺地宝尽小紋小袖、白地葵紋綾小袖