玉津島神社本殿附脇障子

 和歌山市和歌浦に鎮座する玉津島神社の創建は明らかではありませんが、神亀元年(724)に聖武天皇が和歌浦に行幸し「玉津島之神、明光浦の霊」を春秋二回祀るように詔を出したことが記録に残っています。平安期から中世には、貴族や歌人などにとって、和歌浦や玉津島は「和歌の聖地」として、特別な崇敬を集めていたようです。中世には社殿を持たない神社だった可能性も指摘されていますが、慶長11年(1606)には浅野幸長により社殿が造営され、次いで紀州徳川家初代頼宣(よりのぶ)が社領を寄進し、拝殿の建立するなど近世の初めには神社が整備されていきました。
 現在の本殿は一間社隅木入り春日造り、檜皮(ひわだ)葺きで、奠供山(てんぐやま)の中腹に、東を向いて建っています。本殿の正面と側面に縁を設け擬宝珠(ぎぼし)高欄(こうらん)(柱に擬宝珠をつけてある欄干)を据え、背後に脇障子が入り、向拝(こうはい)を海老虹梁(えびこうりよう)で社殿本体と繋いでいます。彫刻の入った蟇股(かえるまた)や木鼻(きばな)、外部全面を彩色仕上げとし、飾金具をちりばめるなど、社殿全体が装飾性豊かに飾られています。現本殿の建立年代は明確でありませんが、玉津島神社には、近世初頭の復興、明和3年(1766)の祭礼再興、19世紀前半の10代藩主治宝(はるとみ)による和歌浦の整備など、いくつかの画期があり本殿の建築様式には、これらの画期と符合するような特徴があることから、慶長11年(1606)の浅野氏によるに造営以後、二度にわたる大改修を経て、現在の姿となったと推定できます。

(写真)本殿 正面、本殿 背面、向拝 龍の装飾、右脇障子彫刻 修理前

旧大村家住宅長屋門

長屋門とは、江戸時代の武家等の屋敷にみられる門の形式で、従者や使用人の住まう部屋である長屋と門構えとが一体となって造られたものです。どの家でも造ることができる建物ではなく、石高によって制限されていました。
 この長屋門は紀州藩の中級藩士であった大村弥兵衛家のもので、江戸時代末期の建設とみられます。大村家の屋敷は、江戸後期には県庁付近の東坂ノ上丁に構えられていました。大村家9代高行は、10代藩主治宝に重用され、元々300石取りの藩士でしたが、最終的には800石まで禄高を増やしました。
 構造は、木造平屋建(一部2階建)、桁行12間(約23.2m)、梁間2間半(約4.7m)、入母屋造本瓦葺(いりもやづくりほんがわらぶき)です。四角い平瓦を壁に固定し、目地に漆喰を半円型に盛って造った海鼠壁など、武家屋敷らしい重厚な外観に特徴があります。鬼瓦や軒丸瓦には、大村家の家紋である桔梗紋が入っており、大村家の屋敷の建物であったことを物語っています。
 明治30年(1897)頃に現・堀止東に移築され、住まいとして利用されていました。和歌山市内に唯一残る武家屋敷の長屋門として非常に貴重なものであり、保存して後世に伝えるため、平成29年(2017)に岡公園(岡山丁)へと移築されました。

駿河屋菓子木型

江戸時代を通じて紀州徳川家の御用菓子商を務めた駿河屋に伝来した菓子木型です。紀州藩の藩政を編纂した『南紀徳川史』や江戸時代後期の地誌『紀伊国(きいのくに)名所図会(めいしょずえ)』にも藩からの御用が頻繁であったとの記載がみられます。これらの菓子木型の中には裏面に墨書がみられるものがあるだけでなく、その当時に作られた(あるいは後世に編纂された)菓子の見本帳(絵(え)手本(てほん))とも照合することができ、現代まで含め167組・63点の菓子木型のうち、50組・18点は藩主の命で作られたことがわかっています。このように、大名に命じられて作られた江戸時代の菓子木型が、絵手本を伴ってこれだけの規模で一括して現存しているという事例は全国的にもあまり例がありません。

写真
銘「和歌の浦」の菓子木型(3組で一連)/銘「和歌の浦」の完成図(絵手本より)/銘「蟠桃」の菓子木型

紀三井寺参詣曼荼羅・熊野観心十界曼荼羅

 紀三井寺参詣曼荼羅は室町時代の終わり頃に天変地異や兵乱で荒廃した紀三井寺を再 建するために紀三井寺の霊験譚や、功徳をわかりやすく説明し、ひとびとから喜捨(寄付)を 募るための絵解きに用いられました。画面中央には横一列に紀三井寺の名の由来となった 「楊柳水」「清浄水」「吉祥水」が、縦軸に「為光上人と龍女」などの紀三井寺の縁起や霊験譚 が描かれるなど紀三井寺を中心とした信仰空間が一幅の中に見事に演出されています。ま た、名草山を背景とし、本堂を中心に鐘楼や多宝塔、楼門等の現在も残る堂宇だけでなく、 割拝殿や大鳥居といった現存しない堂宇も描かれるなど往時の紀三井寺の姿を今に伝え る貴重な資料でもあります。
「熊野観心十界曼荼羅」は人間が生まれてから死ぬまでの段階を表した「老ノ坂(おいのさか)」を画面上方に大きく描き、「心」字の円相、四聖、六道、その他様々な地獄の光景を表した絵画です。
「熊野観心十界曼荼羅」は「那智参詣曼荼羅(なちさんけいまんだら)」等の「社寺参詣曼荼羅(しゃじさんけいまんだら)」と一対(いっつい)のものとして伝っている事例が多く、「熊野観心十界曼荼羅」で地獄の恐ろしさを絵解きし、「参詣曼荼羅」で功徳(くどく)と救いを絵解きした姿を物語るものであると考えられます。この「熊野観心十界曼荼羅」も「紀三井寺参詣曼荼羅」と一対のものとして伝来したものです。紀三井寺をはじめとする西国巡礼の札所(ふだしょ)(11ヵ寺)に遺る「社寺参詣曼荼羅」と「熊野観心十界曼荼羅」は、戦国時代の動乱により疲弊荒廃した社寺が復興を目指し、その為の勧進活動の一環として絵解きを行っていたことをよく示しています。
(写真) 紀三井寺参詣曼荼羅、熊野観心十界曼荼羅

紀州徳川家所用獅子鈕子母印

 紀州徳川家所用獅子鈕子母印は紀州徳川家の旧蔵資料で、昭和50年(1975)に和歌山市に寄贈されました。
 親獅子、子獅子、六面体の3つの印からなり、親獅子印には子獅子印を収納でき、子獅子印の基底部には六面体の入る空隙(すきま)があり、すべてが親獅子印のなかに収納できる構造となっています。材質はいずれも真鍮で、表面に金メッキを施しています。
 親獅子印には、「南海之鎮(なんかいのしずめ)」、 子獅子印には「寿山清玩(じゅざんせいがん)」、六面体には、「政余(せいよ)」、「敬臼所」、「賜紫金魚袋(ししきんぎょたい)」、「明義館(めいぎかん)」、「銀青光禄大夫(ぎんせいこうろくだゆう)」、「楽只(がっきょう)」の印面が施されています。
 紀州徳川家の当主は、それぞれ様々な素材で多数の印を製作しており、そのなかでも本作品は親獅子、子獅子、六面体が入れ子状になっているだけでなく、材質の特性をよく生かした造形的にも非常に優れた印であったため、今日まで大切に伝えられてきたものと考えられます。また、親獅子印の「南海之鎮」は、西国支配の要としての紀州藩の立場を表現した文言といえ、類似の表現も含めて、紀州藩で代々意識されたものと考えられます。なお、親獅子の印面と十一代藩主斉順(なりゆき)の一行書「忠信」(和歌山市立博物館蔵)の「南海之鎮」の落款(らっかん)印とが合致することが確認されています。

和歌山城内出土地鎮具 西之丸聴松閣出土地鎮具 天守台出土地鎮具

聴松閣(ちょうしょうかく)出土地鎮具(じちんぐ)は昭和48年(1973)2月に紅葉渓(もみじだに)庭園の復元整備工事中に聴松閣跡の地下30cmから輪宝(りんぽう)の上に賢瓶(けんびょう)を載せた状態で出土したものです。賢瓶納入品(のうにゅうひん)のうちの寛永通宝は背に「文」の文字が入る寛文8年(1668)~天和3年(1684)の鋳造であることから、聴松閣出土地鎮具の埋納時期は17世紀後半に限定できるものと考えられます。なお、聴松閣出土輪宝に近いものとしては長福寺(ちょうふくじ)(奈良県生駒市)から出土した八鈷輪宝(はっこりんぽう)が挙げらます。
天守台出土の地鎮具は弘化3年(1846)に落雷により焼失し、嘉永3年(1850)に再建された天守閣(弘化4年(1847)着工)に伴うものです。正式な発掘調査による出土ではく、掘削工事中の不時発見であったが、発見当時の土木関係者による状況説明の伝聞が残っており、これらの地鎮具が大天守の4本の大極柱より内側からの出土であることはほぼ確実であるとされています。このことからも、長保寺文書(ちょうほうじもんじょ)(徳義社資料)にある再建天守閣の地鎮祭(じちんさい)で使用されたものであると考えられます。出土した地鎮具に過不足が無いことからも、再建天守閣で行われた地鎮祭は初代の天守閣で行われた地鎮の修法(しゅほう)を厳密に踏襲したものであり、真言宗の正式な儀軌(ぎき)に則って行われたと考えられます。
以上のように、和歌山城西之丸聴松閣出土地鎮具および天守台出土地鎮具は埋納された時期がほぼわかるだけでなく、徳川御三家の一つ紀州徳川家の本城であることから、真言宗の地鎮の修法に正式に則っておこなわれたことがよくわかる大変重要な資料です。

玉津島神社文書

 玉津島神社文書は藩主徳川頼宣からの社領寄進状、春秋祭礼に関する吉田家からの祭式勘文、祭礼に必要な幔幕等の寄進等のほか、神社の由緒書き上げ等の由来、宝物、社格に関する一群、江戸中期には禁裏から同社の春秋祭礼に使者が派遣されるようになり、この代参に関する一群、奠供山拝所など社頭整備、営繕関係および卯の日講関係の古文書・古記録からなる一群、祈祷・祝詞等宗教活動に関する古文書・古記録からなる一群、神主高松家、および国学に関係する古文書・古記録からなる一群により構成されています。
 現在玉津島神社は国名勝「和歌の浦」の重要な核として位置づけられており、「玉津島神社文書」は、「和歌の浦」を構成する同神社の、江戸時代における整備と維持の過程を示しています。とりわけ、玉津島神社は徳川幕藩体制下の地方神社でありながら、朝廷・公家世界の人々との交流を示す古文書・古記録・記念物が数多く残されていることに大きな特徴があります。

〔写真〕国主社領寄進状、春秋祭礼、祓具図説

玉津島神社奉納和歌

 玉津島神社は和歌三神の一柱である玉津嶋明神(衣通姫)を主神とすることから、古くから和歌の道の上達を祈願した奉納があり、それらに関連する資料が数多く残されています。特に、玉津島神社に残る江戸時代の和歌関係の資料の一群は玉津島神社と宮廷歌壇、紀州徳川家、地下歌人との結びつきの深さをうかがわせる貴重な資料です。
 なかでも天皇が古今伝授(『古今和歌集』の秘伝の伝授)を受けた後に公家衆とともに詠んだ「古今伝授御法楽五十首和歌」の和歌短冊は後西天皇が後水尾上皇から古今伝授を受けた際の「寛文四年御法楽奉納和歌短冊」にはじまり光格上皇から仁孝天皇への古今伝授である「天保十三年御法楽奉納和歌短冊」までのものが奉納されています。また、「仙洞御所月次奉納和歌巻」は霊元上皇の仙洞御所で玉津島神社、住吉大社の両社に奉納するために催された月次歌会の奉納和歌を巻子にしたもので、元禄3年(1690)6月~6年(1693)5月までの3年分を「玉津島神社月次御法楽和歌巻」として玉津島神社に奉納したことがわかっています。
 そのほか、「吹上八景手鑑」は冷泉家第十四代為久が紀州藩六代藩主徳川宗直に贈った吹上八景に関する和歌を息子である冷泉家十五代為村が書写したもので、これも玉津島神社を媒介とした宮廷歌壇と紀州徳川家との結びつきを物語る好例となっています。

〔写真〕古今伝授御法楽五十首和歌短冊、仙洞御所月次奉納和歌巻、吹上八景手鑑

伊久比売神社の樟樹

〔種別〕天然記念物

 伊久比売神社は市姫大明神とも呼ばれています。楠見地区の産土神で「延喜式」神名帳に載る伊久比売神社に比定され、「紀伊国神名帳」に「従四位上伊久比売神」とあります。伊久比神社は古くから現在地にあり、楠見一帯の氏神的な神社であったことが推定されていますが、続風土記によると実際に伊久比売神社とされたのは徳川頼宣が入国して以後と考えられています。
 樟樹は本殿の両脇にあり、西側の樟樹Aが幹囲7.8m、根囲17.2m、樹高25m、樹冠直径33m、東側の樟樹Bが幹囲6.4m、根囲18.0m、樹高25m、樹冠直径30mの規模を測る大樹です。いずれも7~8mの高さで3~4支幹にわかれ、それより四方八方に枝が分かれ境内を広く覆っています。
 これらの樟樹は現在も神木として祀られており、樹勢も良好で、樹齢は推定300~400年です。また、江戸時代後期に描かれた『紀伊国名所図会』にもこれらの樟樹が神木として描かれているため、江戸時代の後期にはすでに神木として祀られていたことがわかります。

〔写真〕全景、樟樹A、樟樹B

木本八幡宮文書

 永和3年(1377)から大永5年(1525)に、八幡宮に寄進された田畑の寄進状です。寄進者は木本西庄に居住した武士農民で、田畑は零細なものが多いが、中世後期の村落の事情、荘園の組織を知る上で貴重な資料です。明治24年(1891)に巻子本に仕立てられ、保存状態も良好です。