和歌山城天守閣銅鯱

 和歌山城には嘉永(かえい)3年(1850)に再建された和歌山城天守閣(てんしゅかく)の鯱(しゃち)が断片も含め複数遺されています。これらの鯱は江戸時代後期の天守再建の記録である『御天守御普請覚帳(おてんしゅごふしんおぼえちょう)』(以下、『普請覚帳』)から、乾櫓(いぬいやぐら)(1対)および二の門続櫓(つづきやぐら)(1体)、二の門渡櫓(わたりやぐら)(1体)、小天守(こてんしゅ)(鼻および胴体の一部分のみ)の大棟(おおむね)に取り付けられていた鯱と考えられます。
 なお『普請覚帳』には、10代藩主徳川治宝(はるとみ)の指示により大天守(だいてんしゅ)銅鯱が4尺5寸(約135cm)から6尺5寸(約197cm)へ規格変更され、それに伴い唐銅(からかね)(鋳造)から銅厚板(あついた)打出し(鍛造(たんぞう))への製作技法の変更が行われたことが記(しる)されています。また、「目の色を真鍮(しんちゅう)の台に金鍍金(きんめっき)をし、目玉を黒とすること」「緑青吹仕立(ろくしょうぶきしたて)」とすることといった指示も遺されており、二の門続櫓の銅鯱は往時の大天守の銅鯱を最も如実に想起することができます。このように、和歌山城天守閣銅鯱は各々が『普請覚帳』に記された法量(ほうりょう)、製作技法と一致しており、嘉永3年上棟(じょうとう)の天守閣の小天守、乾櫓、二の門続櫓、二の門渡櫓の大棟に取り付けられていたことが確実であるだけでなく、江戸時代後期の和歌山城を想起することができる数少ない確実な遺品であると言えます。
二の門続櫓銅鯱 二の門渡櫓銅鯱

和歌山御城内惣御絵図

江戸後期から明治初期までの和歌山城内郭(ないかく)にあった建物を精密に描いた平面図です。天守を中心に方位が墨引(すみび)きされ、各郭に存在した建物、各部屋の名称、柱の位置や建具(たてぐ)等が描かれています。さらに堀の幅、石垣の高さや山の高さ等も記されています。本紙(ほんし)全体にわたって約6.5mm四方(しほう)の間隔で基準格子(こうし)がへら引きされており、1間(けん)を約2分(ぶ)に縮小しています。また、1間は6尺5寸として設定されています。
 紀州藩の作事方(さくじかた)あるいは普請方(ふしんかた)が城内の建物管理のために作成したものと考えられ、原図は江戸時代後期(18世紀末~19世紀初頭)に描かれたと推定されています。その後増改築された建物があれば貼紙(はりがみ)をして更新しており、貼絵図(はりえず)としての性格も有しています。明治維新以降の藩政改革のなかで、和歌山藩の政庁(せいちょう)が砂の丸(北)に建てられましたが、本図にはその建物も貼紙されており、明治初年まで使用されていたことが窺(うかが)えます。

多宝小塔

 2段の基壇(きだん)上に安置される木製宝塔(ほうとう)で、屋根の頂(いただき)には火焔宝珠(かえんほうじゅ)を置く相輪(そうりん)を具え、上層の軸部は円形で、亀腹(かめばら)の上に回縁(まわりぶち)・高欄(こうらん)をめぐらしています。初層の軸部は方形で、四方の観音開(かんのんびら)きの扉には葵紋(あおいもん)を、長押上小壁(なげしうえこかべ)・方立板(ほうだていた)等には龍等の彫り物を配するなど、桃山期以降の建築彫刻の技法が取り入れられています。
 初層には火焔宝珠型舎利容器(しゃりようき)をはじめとする舎利容器を安置し、上層には奥書(おくがき)に紀州藩第7代藩主宗将(むねのぶ)の生母永隆院(えいりゅういん)の菩提(ぼだい)を弔(とむら)うために宝暦13年(1763)に造立(ぞうりゅう)したこと、紀三井寺中興(ちゅうこう)の方常上人(ほうじょうしょうにん)によって供養(くよう)されたことが記された宝篋印陀羅尼経(ほうきょういんだらにきょう)が安置(あんち)されています。
 このように桃山期以降の建築彫刻の技法を取り入れた大型の多宝小塔の優品として貴重であるだけでなく、江戸時代における紀三井寺と藩主との関わりがうかがえる作例として極めて重要であるといえます。

圓珠院資料

 圓珠院は紀州徳川家初代の頼宣(よりのぶ)の命により京都愛宕社(あたごしゃ)から和歌山城の鬼門(きもん)の護り、城下の火伏(ひぶせ)として勧請(かんじょう)された愛宕権現社(あたごごんげんしゃ)の別当寺です。和歌山城や歴代藩主の護持(ごじ)に関連する祈祷(きとう)や法要(ほうよう)を行うなど江戸時代を通じて藩と緊密な関係を結んできた紀州徳川家ゆかりの寺院であることから、6代藩主宗直(むねなお)書写の「紺紙金字般若心経(こんしきんじはんにゃしんぎょう)」や弁天堂(べんてんどう)および本堂(旧愛宕社)内の宮殿型厨子(くうでんがたずし)をはじめとする藩主やその周辺の人々が関わった遺品が多く残されています。また、享保年間の愛宕社の屋根葺替は城下の人々から広く寄付を募っておこなわれており、それに関連する台帳等が残されています。この享保の修繕における体制は以後、「享保の先例」とされ直近の明治30年代の境内建替えにまで引き継がれてきたことが圓珠院に遺された文書群からうかがうことができます。
 圓珠院資料は和歌山市内に残る数少ない紀州徳川家との関係が明確にうかがわれる資料群であるだけでなく、社寺の修復における勧進の実態がうかがえる資料群でもあるという点においても重要です。

_(写真) 紺紙金字般若心経/弁財天・毘沙門天・大黒天三尊像/将軍地蔵・毘沙門天・不動明王三尊像/本堂(旧愛宕社)宮殿型厨子

和歌山城追廻門

和歌山城追廻門は、城外の扇ノ芝(おうぎのしば)に馬場があり、そこで馬を追廻していたことが門の名前の由来とされています。鏡柱(かがみばしら)2本と内側の控柱2本から構成されており、2本の鏡柱上に冠木(かぶき)を渡して小さな切妻屋根(きりづまやね)を被せ、鏡柱と内側の控柱の間にも小さな切妻屋根を被せています。また、切妻の両側に破風(はふ)はなく、直接石垣に接しています。
 追廻門は昭和58~59年に行われた解体修理時の調査で、主要部材に当初材が多く残っていたことが判明しています。当初材の垂木(たるき)の形状から創建時期は寛永期よりは古くなることが指摘されおり、元和年間までさかのぼることになれば、徳川頼宣による砂の丸と南の丸の造営時期とも一致することとなります。
 和歌山城では、重要文化財である岡口門をのぞくと現存する江戸時代の建造物は追廻門と井戸屋形(いどやかた)のみであり、追廻門は江戸時代の和歌山城の景観を現在に残す貴重な文化財と言えます。

玉津島神社本殿附脇障子

 和歌山市和歌浦に鎮座する玉津島神社の創建は明らかではありませんが、神亀元年(724)に聖武天皇が和歌浦に行幸し「玉津島之神、明光浦の霊」を春秋二回祀るように詔を出したことが記録に残っています。平安期から中世には、貴族や歌人などにとって、和歌浦や玉津島は「和歌の聖地」として、特別な崇敬を集めていたようです。中世には社殿を持たない神社だった可能性も指摘されていますが、慶長11年(1606)には浅野幸長により社殿が造営され、次いで紀州徳川家初代頼宣(よりのぶ)が社領を寄進し、拝殿の建立するなど近世の初めには神社が整備されていきました。
 現在の本殿は一間社隅木入り春日造り、檜皮(ひわだ)葺きで、奠供山(てんぐやま)の中腹に、東を向いて建っています。本殿の正面と側面に縁を設け擬宝珠(ぎぼし)高欄(こうらん)(柱に擬宝珠をつけてある欄干)を据え、背後に脇障子が入り、向拝(こうはい)を海老虹梁(えびこうりよう)で社殿本体と繋いでいます。彫刻の入った蟇股(かえるまた)や木鼻(きばな)、外部全面を彩色仕上げとし、飾金具をちりばめるなど、社殿全体が装飾性豊かに飾られています。現本殿の建立年代は明確でありませんが、玉津島神社には、近世初頭の復興、明和3年(1766)の祭礼再興、19世紀前半の10代藩主治宝(はるとみ)による和歌浦の整備など、いくつかの画期があり本殿の建築様式には、これらの画期と符合するような特徴があることから、慶長11年(1606)の浅野氏によるに造営以後、二度にわたる大改修を経て、現在の姿となったと推定できます。

(写真)本殿 正面、本殿 背面、向拝 龍の装飾、右脇障子彫刻 修理前

旧大村家住宅長屋門

長屋門とは、江戸時代の武家等の屋敷にみられる門の形式で、従者や使用人の住まう部屋である長屋と門構えとが一体となって造られたものです。どの家でも造ることができる建物ではなく、石高によって制限されていました。
 この長屋門は紀州藩の中級藩士であった大村弥兵衛家のもので、江戸時代末期の建設とみられます。大村家の屋敷は、江戸後期には県庁付近の東坂ノ上丁に構えられていました。大村家9代高行は、10代藩主治宝に重用され、元々300石取りの藩士でしたが、最終的には800石まで禄高を増やしました。
 構造は、木造平屋建(一部2階建)、桁行12間(約23.2m)、梁間2間半(約4.7m)、入母屋造本瓦葺(いりもやづくりほんがわらぶき)です。四角い平瓦を壁に固定し、目地に漆喰を半円型に盛って造った海鼠壁など、武家屋敷らしい重厚な外観に特徴があります。鬼瓦や軒丸瓦には、大村家の家紋である桔梗紋が入っており、大村家の屋敷の建物であったことを物語っています。
 明治30年(1897)頃に現・堀止東に移築され、住まいとして利用されていました。和歌山市内に唯一残る武家屋敷の長屋門として非常に貴重なものであり、保存して後世に伝えるため、平成29年(2017)に岡公園(岡山丁)へと移築されました。

駿河屋菓子木型

江戸時代を通じて紀州徳川家の御用菓子商を務めた駿河屋に伝来した菓子木型です。紀州藩の藩政を編纂した『南紀徳川史』や江戸時代後期の地誌『紀伊国(きいのくに)名所図会(めいしょずえ)』にも藩からの御用が頻繁であったとの記載がみられます。これらの菓子木型の中には裏面に墨書がみられるものがあるだけでなく、その当時に作られた(あるいは後世に編纂された)菓子の見本帳(絵(え)手本(てほん))とも照合することができ、現代まで含め167組・63点の菓子木型のうち、50組・18点は藩主の命で作られたことがわかっています。このように、大名に命じられて作られた江戸時代の菓子木型が、絵手本を伴ってこれだけの規模で一括して現存しているという事例は全国的にもあまり例がありません。

写真
銘「和歌の浦」の菓子木型(3組で一連)/銘「和歌の浦」の完成図(絵手本より)/銘「蟠桃」の菓子木型

紀三井寺参詣曼荼羅・熊野観心十界曼荼羅

 紀三井寺参詣曼荼羅は室町時代の終わり頃に天変地異や兵乱で荒廃した紀三井寺を再 建するために紀三井寺の霊験譚や、功徳をわかりやすく説明し、ひとびとから喜捨(寄付)を 募るための絵解きに用いられました。画面中央には横一列に紀三井寺の名の由来となった 「楊柳水」「清浄水」「吉祥水」が、縦軸に「為光上人と龍女」などの紀三井寺の縁起や霊験譚 が描かれるなど紀三井寺を中心とした信仰空間が一幅の中に見事に演出されています。ま た、名草山を背景とし、本堂を中心に鐘楼や多宝塔、楼門等の現在も残る堂宇だけでなく、 割拝殿や大鳥居といった現存しない堂宇も描かれるなど往時の紀三井寺の姿を今に伝え る貴重な資料でもあります。
「熊野観心十界曼荼羅」は人間が生まれてから死ぬまでの段階を表した「老ノ坂(おいのさか)」を画面上方に大きく描き、「心」字の円相、四聖、六道、その他様々な地獄の光景を表した絵画です。
「熊野観心十界曼荼羅」は「那智参詣曼荼羅(なちさんけいまんだら)」等の「社寺参詣曼荼羅(しゃじさんけいまんだら)」と一対(いっつい)のものとして伝っている事例が多く、「熊野観心十界曼荼羅」で地獄の恐ろしさを絵解きし、「参詣曼荼羅」で功徳(くどく)と救いを絵解きした姿を物語るものであると考えられます。この「熊野観心十界曼荼羅」も「紀三井寺参詣曼荼羅」と一対のものとして伝来したものです。紀三井寺をはじめとする西国巡礼の札所(ふだしょ)(11ヵ寺)に遺る「社寺参詣曼荼羅」と「熊野観心十界曼荼羅」は、戦国時代の動乱により疲弊荒廃した社寺が復興を目指し、その為の勧進活動の一環として絵解きを行っていたことをよく示しています。
(写真) 紀三井寺参詣曼荼羅、熊野観心十界曼荼羅

紀州徳川家所用獅子鈕子母印

 紀州徳川家所用獅子鈕子母印は紀州徳川家の旧蔵資料で、昭和50年(1975)に和歌山市に寄贈されました。
 親獅子、子獅子、六面体の3つの印からなり、親獅子印には子獅子印を収納でき、子獅子印の基底部には六面体の入る空隙(すきま)があり、すべてが親獅子印のなかに収納できる構造となっています。材質はいずれも真鍮で、表面に金メッキを施しています。
 親獅子印には、「南海之鎮(なんかいのしずめ)」、 子獅子印には「寿山清玩(じゅざんせいがん)」、六面体には、「政余(せいよ)」、「敬臼所」、「賜紫金魚袋(ししきんぎょたい)」、「明義館(めいぎかん)」、「銀青光禄大夫(ぎんせいこうろくだゆう)」、「楽只(がっきょう)」の印面が施されています。
 紀州徳川家の当主は、それぞれ様々な素材で多数の印を製作しており、そのなかでも本作品は親獅子、子獅子、六面体が入れ子状になっているだけでなく、材質の特性をよく生かした造形的にも非常に優れた印であったため、今日まで大切に伝えられてきたものと考えられます。また、親獅子印の「南海之鎮」は、西国支配の要としての紀州藩の立場を表現した文言といえ、類似の表現も含めて、紀州藩で代々意識されたものと考えられます。なお、親獅子の印面と十一代藩主斉順(なりゆき)の一行書「忠信」(和歌山市立博物館蔵)の「南海之鎮」の落款(らっかん)印とが合致することが確認されています。