紀州徳川家所用獅子鈕子母印

 紀州徳川家所用獅子鈕子母印は紀州徳川家の旧蔵資料で、昭和50年(1975)に和歌山市に寄贈されました。
 親獅子、子獅子、六面体の3つの印からなり、親獅子印には子獅子印を収納でき、子獅子印の基底部には六面体の入る空隙(すきま)があり、すべてが親獅子印のなかに収納できる構造となっています。材質はいずれも真鍮で、表面に金メッキを施しています。
 親獅子印には、「南海之鎮(なんかいのしずめ)」、 子獅子印には「寿山清玩(じゅざんせいがん)」、六面体には、「政余(せいよ)」、「敬臼所」、「賜紫金魚袋(ししきんぎょたい)」、「明義館(めいぎかん)」、「銀青光禄大夫(ぎんせいこうろくだゆう)」、「楽只(がっきょう)」の印面が施されています。
 紀州徳川家の当主は、それぞれ様々な素材で多数の印を製作しており、そのなかでも本作品は親獅子、子獅子、六面体が入れ子状になっているだけでなく、材質の特性をよく生かした造形的にも非常に優れた印であったため、今日まで大切に伝えられてきたものと考えられます。また、親獅子印の「南海之鎮」は、西国支配の要としての紀州藩の立場を表現した文言といえ、類似の表現も含めて、紀州藩で代々意識されたものと考えられます。なお、親獅子の印面と十一代藩主斉順(なりゆき)の一行書「忠信」(和歌山市立博物館蔵)の「南海之鎮」の落款(らっかん)印とが合致することが確認されています。

 

和歌山城内出土地鎮具 西之丸聴松閣出土地鎮具 天守台出土地鎮具

聴松閣(ちょうしょうかく)出土地鎮具(じちんぐ)は昭和48年(1973)2月に紅葉渓(もみじだに)庭園の復元整備工事中に聴松閣跡の地下30cmから輪宝(りんぽう)の上に賢瓶(けんびょう)を載せた状態で出土したものです。賢瓶納入品(のうにゅうひん)のうちの寛永通宝は背に「文」の文字が入る寛文8年(1668)~天和3年(1684)の鋳造であることから、聴松閣出土地鎮具の埋納時期は17世紀後半に限定できるものと考えられます。なお、聴松閣出土輪宝に近いものとしては長福寺(ちょうふくじ)(奈良県生駒市)から出土した八鈷輪宝(はっこりんぽう)が挙げらます。
天守台出土の地鎮具は弘化3年(1846)に落雷により焼失し、嘉永3年(1850)に再建された天守閣(弘化4年(1847)着工)に伴うものです。正式な発掘調査による出土ではく、掘削工事中の不時発見であったが、発見当時の土木関係者による状況説明の伝聞が残っており、これらの地鎮具が大天守の4本の大極柱より内側からの出土であることはほぼ確実であるとされています。このことからも、長保寺文書(ちょうほうじもんじょ)(徳義社資料)にある再建天守閣の地鎮祭(じちんさい)で使用されたものであると考えられます。出土した地鎮具に過不足が無いことからも、再建天守閣で行われた地鎮祭は初代の天守閣で行われた地鎮の修法(しゅほう)を厳密に踏襲したものであり、真言宗の正式な儀軌(ぎき)に則って行われたと考えられます。
以上のように、和歌山城西之丸聴松閣出土地鎮具および天守台出土地鎮具は埋納された時期がほぼわかるだけでなく、徳川御三家の一つ紀州徳川家の本城であることから、真言宗の地鎮の修法に正式に則っておこなわれたことがよくわかる大変重要な資料です。

玉津島神社文書

 玉津島神社文書は藩主徳川頼宣からの社領寄進状、春秋祭礼に関する吉田家からの祭式勘文、祭礼に必要な幔幕等の寄進等のほか、神社の由緒書き上げ等の由来、宝物、社格に関する一群、江戸中期には禁裏から同社の春秋祭礼に使者が派遣されるようになり、この代参に関する一群、奠供山拝所など社頭整備、営繕関係および卯の日講関係の古文書・古記録からなる一群、祈祷・祝詞等宗教活動に関する古文書・古記録からなる一群、神主高松家、および国学に関係する古文書・古記録からなる一群により構成されています。
 現在玉津島神社は国名勝「和歌の浦」の重要な核として位置づけられており、「玉津島神社文書」は、「和歌の浦」を構成する同神社の、江戸時代における整備と維持の過程を示しています。とりわけ、玉津島神社は徳川幕藩体制下の地方神社でありながら、朝廷・公家世界の人々との交流を示す古文書・古記録・記念物が数多く残されていることに大きな特徴があります。

〔写真〕国主社領寄進状、春秋祭礼、祓具図説

玉津島神社奉納和歌

 玉津島神社は和歌三神の一柱である玉津嶋明神(衣通姫)を主神とすることから、古くから和歌の道の上達を祈願した奉納があり、それらに関連する資料が数多く残されています。特に、玉津島神社に残る江戸時代の和歌関係の資料の一群は玉津島神社と宮廷歌壇、紀州徳川家、地下歌人との結びつきの深さをうかがわせる貴重な資料です。
 なかでも天皇が古今伝授(『古今和歌集』の秘伝の伝授)を受けた後に公家衆とともに詠んだ「古今伝授御法楽五十首和歌」の和歌短冊は後西天皇が後水尾上皇から古今伝授を受けた際の「寛文四年御法楽奉納和歌短冊」にはじまり光格上皇から仁孝天皇への古今伝授である「天保十三年御法楽奉納和歌短冊」までのものが奉納されています。また、「仙洞御所月次奉納和歌巻」は霊元上皇の仙洞御所で玉津島神社、住吉大社の両社に奉納するために催された月次歌会の奉納和歌を巻子にしたもので、元禄3年(1690)6月~6年(1693)5月までの3年分を「玉津島神社月次御法楽和歌巻」として玉津島神社に奉納したことがわかっています。
 そのほか、「吹上八景手鑑」は冷泉家第十四代為久が紀州藩六代藩主徳川宗直に贈った吹上八景に関する和歌を息子である冷泉家十五代為村が書写したもので、これも玉津島神社を媒介とした宮廷歌壇と紀州徳川家との結びつきを物語る好例となっています。

〔写真〕古今伝授御法楽五十首和歌短冊、仙洞御所月次奉納和歌巻、吹上八景手鑑

伊久比売神社の樟樹

〔種別〕天然記念物

 伊久比売神社は市姫大明神とも呼ばれています。楠見地区の産土神で「延喜式」神名帳に載る伊久比売神社に比定され、「紀伊国神名帳」に「従四位上伊久比売神」とあります。伊久比神社は古くから現在地にあり、楠見一帯の氏神的な神社であったことが推定されていますが、続風土記によると実際に伊久比売神社とされたのは徳川頼宣が入国して以後と考えられています。
 樟樹は本殿の両脇にあり、西側の樟樹Aが幹囲7.8m、根囲17.2m、樹高25m、樹冠直径33m、東側の樟樹Bが幹囲6.4m、根囲18.0m、樹高25m、樹冠直径30mの規模を測る大樹です。いずれも7~8mの高さで3~4支幹にわかれ、それより四方八方に枝が分かれ境内を広く覆っています。
 これらの樟樹は現在も神木として祀られており、樹勢も良好で、樹齢は推定300~400年です。また、江戸時代後期に描かれた『紀伊国名所図会』にもこれらの樟樹が神木として描かれているため、江戸時代の後期にはすでに神木として祀られていたことがわかります。

〔写真〕全景、樟樹A、樟樹B

木本八幡宮文書

 永和3年(1377)から大永5年(1525)に、八幡宮に寄進された田畑の寄進状です。寄進者は木本西庄に居住した武士農民で、田畑は零細なものが多いが、中世後期の村落の事情、荘園の組織を知る上で貴重な資料です。明治24年(1891)に巻子本に仕立てられ、保存状態も良好です。

雑賀崎台場跡

 雑賀崎の北端部、紀伊水道に突出した通称「トンガの鼻」と呼ばれる岬の先端部に築かれた台場跡です。調査により台場の周囲には土塁がめぐり、土塁の下には石垣が構築されている状況が判明しました。土塁に囲まれた中央部には、逆V字状の石積み遺構が確認されています。 この石積み遺構に関しては、現在のところ類例がなく、詳細は不明ですが、砲台に関連するなんらかの施設であるものと考えられます。台場の築造時期は、構築の際の整地土から出土した遺物より、18世紀後半から19世紀前半と考えられます。

〔写真〕逆V字状の石積み遺構

三十六歌仙額 狩野興甫画

〔種別〕絵画

 中世以来、和歌神として尊崇された玉津島神社には和歌に関するものをはじめとして優れた文化財が数多く伝えられています。三十六歌仙とは寛弘年間(1004~1011)のころに藤原公任が撰した『三十六人撰』の歌人(柿本人麻呂、山部赤人、紀貫之ほか)を指します。鎌倉時代以降、盛んに三十六歌仙の歌に各々の肖像を描いたものが製作され、室町時代以降は、玉津島神社の三十六歌仙額のような扁額に描くものが多く作られました。
 本額(各55.5cm×41.8cm×4.0cm)は初代紀州藩主徳川頼宣の寄進によるもので、歌仙絵の絵師は紀州藩のお抱え絵師であった狩野興甫、詠歌は当時能書家として知られた京都の公家や門跡が筆を執り、詠歌筆者を示す付札は紀州藩の儒臣李梅渓が務めるなど、制作の経緯が詳細に判明する点で重要です。

〔写真〕山部赤人、小野小町、紀友則

徳川家康所用装束類

〔種別〕工芸

 徳川家康所用品として紀州徳川家に伝来していた装束類で、徳川頼宣が奉納したものと明治4年(1871)に徳川茂承により奉納されたものがあります。特に、萌葱地葵紋散し狩衣、蜀江錦法被、白地紗綾葵紋繍帯の3点はいずれも能に用いられる装束で、葵紋附黒漆塗箱に入って伝来してきたことから、セットで制作されたものと考えられます。

〔写真〕萌葱地葵紋散し狩衣、蜀江錦法被

総持寺鐘楼

 紀ノ川北岸の梶取集落内に位置する総持寺は、宝徳2年(1450)に開かれた浄土宗西山派の寺院です。寛文年間(1661~1672)に禅林寺・光明寺の末寺となりますが、紀伊・和泉八十八ヶ寺の末寺を有し、同派檀林(学問寺)七ヶ寺の1つに数えられる名刹です。本堂・総門、釈迦堂・玄関・開山堂・鐘楼などいずれも江戸時代末までに建立されたもので、学問寺としての機能をもつ寺格に相応しく、近世寺院建築を理解する上で重要です。
 鐘楼は、やや規模の大きな方一間、四方内転びの柱をもつ建物です。梵鐘に寛永15年(1638)の銘があり、虹梁や木鼻の彫刻は細く流麗で17世紀の早い時期の様式を示しています。屋根は近年、葺き替えられていますが、木鼻は総門とよく似た意匠であり、当寺のなかでは総門と同様に17世紀中頃の最も古い建物とみられます。