奠供山碑 (仁井田好古撰文碑)

 江戸時代後期の紀州藩の儒学者で、『紀伊続風土記』を編纂した仁井田好古が、紀州の史跡を顕彰するために碑文を作成した碑の一つです。和歌浦に所在する奠供山の由来を記したもので、奠供山の隣の玉津島神社にあります。砂岩製で、高さ156cmです。神亀元年(724)、聖武天皇の和歌浦行幸の際、和歌浦の景観に感動し、守戸をおくことを命じた詔が発せられたのが奠供山とされており、天保3年(1832)に碑文が作成されています。

嘉永橋

 嘉永橋は大阪府泉南郡岬町と接する大川港に流れ込む清水川河口に架設されています。19枚の橋板でゆるやかなアーチ形を作っています。橋の両側格には、狭間飾りをもつ欄干が6枚取り付けられており、南端詰め欄干力柱の内側には「嘉永橋」、同じく北柱には「かゑいはし」、欄干中央の柱の東側に「嘉永七年寅九月」、西側に「當浦 石野喜右衛門」と刻まれています。
 これらの内容から、嘉永橋は嘉永7年(1854)に大川浦の回船問屋石野氏により建立されたことが分かります。これは、和歌浦の不老橋(国指定文化財〔名勝〕、市指定文化財〔建造物〕)が架けられた嘉永4年(1851)から3年後のことです。
 また、嘉永橋は建立直後の嘉永7(1854)年11月5日に発生した安政南海地震の影響で大津波の被害に見舞われるものの、今日までその姿をとどめています。

〔写真〕全景、外観(清水川の上流から)、親柱

不老橋

 不老橋は東照宮御旅所の移築に伴って、紀州徳川家第10代藩主であった徳川治宝の命により嘉永3年(1850)に着工し、翌4年(1851)に完成しました。この橋は、徳川家康を祀る東照宮の祭礼である和歌祭の際に藩主や徳川家の人々および東照宮関係者が、片男波松原にあった御旅所に向かうために通行する「お成り道」にかけられた橋です。
 橋の形状はアーチ型をしており、この時期の橋としては近畿地方周辺では非常に珍しいものです。アーチ部分については肥後(熊本)の石工集団が施工し、勾欄部分については湯浅(和歌山県湯浅町)の石屋忠兵衛が施工したと考えられています。江戸時代のアーチ型石橋としては、九州地方以外ではほとんど類例がないものであり、勾欄部分には雲をモチーフとしたレリーフがあるなど装飾的にも優れています。
 なお、平成20年(2008)6月24日には、和歌山県指定文化財(名勝・史跡)「和歌の浦」の構成要素の一つとなり、平成22年(2010)8月5日には国指定文化財(名勝)「和歌の浦」の一部となっています。

湊御殿(奥御殿)

 湊御殿は、現在の和歌山市湊1~3丁目にあった紀州藩主の別邸で、二代藩主徳川光貞が元禄11年(1698)に造営しました。しかしながら、その後幾度も火災で焼失し、現在の建物は十一代藩主斉順により、天保5年(1834)に再建された建物のうちの一棟で、平成18年(2006)に現在の地に移築されました。
 斉順により造営された湊御殿は、江戸城本丸御殿や紀州藩の江戸屋敷を模した、広壮で豪華なものであったと言われています。建物は、上の間・次の間・入側廊下などからなる数寄屋風書院造によるもので、上の間には床の間・違棚があります。また、入側廊下の奥の杉戸絵には紀州藩に仕えた絵師により「唐人人物図」と「花鳥図」が描かれています。

〔写真〕湊御殿(奥御殿) 外観

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海禅院の多宝塔

 多宝塔は和歌浦に浮かぶ妹背山の山上に建てられています。妹背山は初代紀州藩主徳川頼宣の生母であるお万の方(養珠院)が徳川家康の三十三回忌に際し、その追善供養のために多数の小石に書写した法華経題目を石室に埋納した場所です。慶安2年(1649)にはその上に小堂が建てられていましたが、承応2年(1653)にお万の方が亡くなると、頼宣は母を弔うために現在の多宝塔に改めたとされています。
 平成16年(2004)に市民団体である妹背山護持顕彰会により多宝塔下の石室内の調査が実施され、全国の大名や地元の庶民が記した経石が15万個とお万の方のものと考えられる遺髪が発見されています。頼宣は多宝塔のほかにも唐門・瑞門・拝殿を設けました。
 また、海辺には水閣(観海閣)があり、参拝客でにぎわっていたようです。

和歌山城

〔種別〕史跡

 天正13年(1585)、羽柴(豊臣)秀吉が紀州攻めを行い、帰陣直後に紀州支配の中心として、吹上峰を城地と定め、弟秀長に支配をまかせました。その後、秀長の城代として桑山茂晴が在城し、慶長5年(1600)に浅野幸長が関ヶ原の戦功により紀伊国城主となり、本格的に和歌山城の増改築に着手しています。元和5年(1619)徳川家康の第10子頼宣が55万5千石を占有して入国し、御三家の1つとなりました。
 弘化3(1846)年7月26日、天守閣落雷のため大小両天守・櫓・蔵・多門等を焼失し、嘉永3年(1850)に再建されましたが、昭和20年(1945)7月、空襲によって再び焼失しました。現在の天守閣は昭和33年(1958)に嘉永3年再建時の外観で復元したものです。

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