小西家住宅(主屋、土蔵、門及び塀)

 昭和14年(1939)建築の主屋は、木造二階建、瓦葺の和風建築ですが、玄関脇の応接間だけは外観内部とも洋風で、この時代の邸宅建築の特徴を備えています。敷地北側の土蔵や門、板塀も質が高く年月を経た古色が味わい深いものとなっています。

紀三井寺の応同樹

 護国院(紀三井寺)は、宝亀元年(770)、為光上人によって開かれた寺院です。寺伝によると、応同樹は為光上人が竜宮で竜王から贈られて持ち帰った霊木とされています。植物分類では、クスノキ科タブノキ属の常緑高木で、照葉樹林の代表的な樹種のひとつです。表坂中腹滝ノ坊の上にある応同樹は、和歌の浦を見渡す場所にあり、樹齢は約150年とされています。昭和44年(1969)、天然記念物として指定を受けたときには、幹周り2m、樹高15mの立派な樹観でした。現在では虫損により高さ1.5mで伐採されていますが、主幹や根元からは新しい枝が育っています。

紀三井寺の樟樹

 紀三井寺護国院の本堂前に、樹高20m、胸高幹周り5.8mで、推定樹齢400年とされる大樟樹があります。樟樹は、植物分類ではクスノキ科ニッケイ属で、防虫効果のある芳香を持ち、特に西日本で人里近くに多く植生する樹木です。2.5mの高さから3本の幹にわかれ、それより四方八方に枝が広がり、広場の南半分をおおっています。遠く和歌の浦からもその偉容が望見できるほどです。枝分かれの又状の部分には、木本植物のネズミモチ・ナワシロブミと、草木植物のリュウキュウヤブラン・ヘクソカズラが着生しています。樟樹北側の根元には小祠が建てられ、樟龍王大神として祀られています。

猊口石

〔種別〕史跡

 秋葉山の北西裾部にある緑色片岩の岩山で、その形が獅子(猊)が口を張った姿を思わせることから猊口石と名付けられました。江戸時代から名所として取り扱われており、岩の西壁には紀州藩の儒学者として著名な李梅渓の筆により「猊口石」の刻銘があります。この猊口石からは、縄文時代晩期の土器片とハマグリやハイガイなどの貝殻が出土しており、そうした状況から猊口石は秋葉山麓裾部の旧海岸に営まれた岩陰遺跡であると考えられます。

〔写真〕遠景(西から望む)、刻まれた銘部分「猊口石」

桑山玉洲の墓

〔種別〕史跡

 桑山玉洲は延享3年(1746)に廻船業・両替商を営む桑山昌澄の子として和歌浦に生まれます。父昌澄は玉洲が7歳の頃に亡くなったため、若くして家業を継ぎ新田開発事業にも着手するなど事業家として活躍します。現在、和歌山市の和田盆地にはその業績を称え、桑山の地名が残されています。
 一方で、玉洲は幼少から独学で書画の研究に励み、20代の頃には本格的に画を学ぼうと江戸の書画家を訪ねています。帰郷してからは真景図など独自の絵画世界を築きます。また、優れた画論家としても著名です。玉洲は寛政11年(1799)4月13日に54歳で亡くなり、桑山家の菩提寺である和歌浦宗善寺に葬られました。

望海楼遺址碑 (仁井田好古撰文碑)

 江戸時代後期の紀州藩の儒学者で、『紀伊続風土記』を編纂した仁井田好古が、紀州の史跡を顕彰するために碑文を作成した碑の一つです。砂岩製で、高さ182cm、幅80.5cmです。天平神護元年(765)の称徳天皇の和歌浦行幸の際に「望海楼」が営まれましたが、奠供山の南麓がその遺址であるとされています。
 碑は、元は奠供山麓の市町川沿いに建てられていましたが、現在は奠供山山頂に置かれています。

奠供山碑 (仁井田好古撰文碑)

 江戸時代後期の紀州藩の儒学者で、『紀伊続風土記』を編纂した仁井田好古が、紀州の史跡を顕彰するために碑文を作成した碑の一つです。和歌浦に所在する奠供山の由来を記したもので、奠供山の隣の玉津島神社にあります。砂岩製で、高さ156cmです。神亀元年(724)、聖武天皇の和歌浦行幸の際、和歌浦の景観に感動し、守戸をおくことを命じた詔が発せられたのが奠供山とされており、天保3年(1832)に碑文が作成されています。

不老橋

 不老橋は東照宮御旅所の移築に伴って、紀州徳川家第10代藩主であった徳川治宝の命により嘉永3年(1850)に着工し、翌4年(1851)に完成しました。この橋は、徳川家康を祀る東照宮の祭礼である和歌祭の際に藩主や徳川家の人々および東照宮関係者が、片男波松原にあった御旅所に向かうために通行する「お成り道」にかけられた橋です。
 橋の形状はアーチ型をしており、この時期の橋としては近畿地方周辺では非常に珍しいものです。アーチ部分については肥後(熊本)の石工集団が施工し、勾欄部分については湯浅(和歌山県湯浅町)の石屋忠兵衛が施工したと考えられています。江戸時代のアーチ型石橋としては、九州地方以外ではほとんど類例がないものであり、勾欄部分には雲をモチーフとしたレリーフがあるなど装飾的にも優れています。
 なお、平成20年(2008)6月24日には、和歌山県指定文化財(名勝・史跡)「和歌の浦」の構成要素の一つとなり、平成22年(2010)8月5日には国指定文化財(名勝)「和歌の浦」の一部となっています。

湊御殿(奥御殿)

 湊御殿は、現在の和歌山市湊1~3丁目にあった紀州藩主の別邸で、二代藩主徳川光貞が元禄11年(1698)に造営しました。しかしながら、その後幾度も火災で焼失し、現在の建物は十一代藩主斉順により、天保5年(1834)に再建された建物のうちの一棟で、平成18年(2006)に現在の地に移築されました。
 斉順により造営された湊御殿は、江戸城本丸御殿や紀州藩の江戸屋敷を模した、広壮で豪華なものであったと言われています。建物は、上の間・次の間・入側廊下などからなる数寄屋風書院造によるもので、上の間には床の間・違棚があります。また、入側廊下の奥の杉戸絵には紀州藩に仕えた絵師により「唐人人物図」と「花鳥図」が描かれています。

〔写真〕湊御殿(奥御殿) 外観

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海禅院の多宝塔

 多宝塔は和歌浦に浮かぶ妹背山の山上に建てられています。妹背山は初代紀州藩主徳川頼宣の生母であるお万の方(養珠院)が徳川家康の三十三回忌に際し、その追善供養のために多数の小石に書写した法華経題目を石室に埋納した場所です。慶安2年(1649)にはその上に小堂が建てられていましたが、承応2年(1653)にお万の方が亡くなると、頼宣は母を弔うために現在の多宝塔に改めたとされています。
 平成16年(2004)に市民団体である妹背山護持顕彰会により多宝塔下の石室内の調査が実施され、全国の大名や地元の庶民が記した経石が15万個とお万の方のものと考えられる遺髪が発見されています。頼宣は多宝塔のほかにも唐門・瑞門・拝殿を設けました。
 また、海辺には水閣(観海閣)があり、参拝客でにぎわっていたようです。